<出典:wikipedia>
第34代天皇
舒明天皇 じょめいてんのう
(593年~641年)
628年。
推古天皇が後継者を決めずに他界したため、後継者問題が浮上しました。
候補となったのは2人。
敏達天皇の孫の田村皇子と、用明天皇の孫の山背大兄王(やましろのおおえのおう)でした。
田村皇子は推古天皇が亡くなる直前に、
「天下を治めるのは大任だ。慎重に物事を進めなさい」
と、推古天皇から言われていました。
一方、山背大兄王も
「やかましく騒いではいけない。必ず群臣の言葉に従い、謹んで道を誤らないようにしなさい」
と伝えられていました。
そのため、2人とも皇位を譲られたのが自分だと考えていました。
これを聞いた群臣たちも悩み、蘇我蝦夷(そがのえみし)が中心となって後継者決定会議が行われました。
当時、蝦夷は父の馬子から権力を引き継いだばかり。
独断できるほどの力はなく、議論もいっこうに進みません。
そうこうしていると、蘇我一族の境部臣摩理勢(さかいべのおみまりせ)が蝦夷の機嫌を損ね、山背大兄王のもとに逃げ込みました。
これをきっかけに、蘇我蝦夷は山背大兄王を見限り、田村皇子を推すことに決めました。
こうして、田村皇子が天皇に即位することになり、舒明天皇となって政治がはじまりました。
舒明天皇の政治
630年。
舒明天皇は、犬上三田耜(いぬかみのみたすき)、恵日(えにち)らを中国(唐)に派遣。
632年に帰ってきた三田耜らは、唐の使者・高表仁を連れてきました。
637年。
東北の蝦夷が反乱。
そこで、上毛野君形名(かみつけのきみかたな)を将軍に起用し、蝦夷を討伐。
大勢の人間を捕虜にしました。
4年後。
641年に、舒明天皇は息を引き取りました。