<出典:wikipedia>
第12代天皇
景行天皇 けいこうてんのう
(紀元前13年~紀元後130年)
景行天皇は、垂仁天皇の第三子であり、日本武尊(やまとたけるのみこと)の父親です。
この時代。
熊襲(くまそ)と蝦夷(えみし)を討伐して、辺境にまで勢力を拡大しました。
『古事記』では景行天皇は137歳まで生き、77子を諸国に封じたとされていることから、実在が不明確な天皇でもあります。
それと同時に、景行天皇の子である日本武尊も多くの学者から存在を否定されています。
『日本書紀』によると、まず景行天皇が九州南部にいた熊襲という種族を征伐。
征伐後、景行天皇が大和にもどると、再び熊襲がヤマト政権に背きました。
そのため日本武尊が派遣され、熊襲の長である川上梟帥(かわかみたける)を討ちました。
『古事記』の中では日本武尊が中心に物語が進んでいきます。
まず、日本武尊は景行天皇の命令を取り違え、兄を殺してしまいました。
これを知った景行天皇は日本武尊を恐れ、熊襲討伐を命じました。
天皇の命令をうけた日本武尊は、伊勢へ行って叔母の衣装を借り、女装して熊襲健(川上梟帥のこと)に接近。
暗殺を成功させました。
熊襲を制圧した日本武尊は、帰りに出雲健(いずもたける)を倒して、大和に帰還しました。
その後、今度は東への遠征を命じられました。
これに対し日本武尊は
「天皇は私のことを、早く死ねと思っているのか・・・。」
と嘆きます。
それでも、命令に従って東征へ。
日本武尊は出発前に、伊勢で叔母から天叢雲剣(あまのむらくものつるぎ)をもらいました。
この剣が、相模で野火の難にあったときに活躍。
天叢雲剣で草を薙いで、危機を脱出しました。
こうしてこの剣は「草薙剣」と呼ばれるようになりました。
苦難の末、東国を平定した日本武尊。
しかし、遠征の疲れで病気になり、その後、亡くなってしまいました。
景行天皇と日本武尊の伝承は、ヤマト政権ができあがる過程が伝説化されたものだと考えられます。
ヤマト政権は景行天皇の時代に九州、東国にかけて勢力を拡大したのでしょう。