<出典:wikipedia>
琵琶法師の弦の音に合わせて紡がれる平家物語には、魅力的なシーンがいくつもあります。
中でも盛り上がるのは、平知盛(たいら の とももり)が自害するシーン。
壇ノ浦で平家が滅びるしかないと分かり、平知盛が潔く壇ノ浦の海へ飛び込む場面です。
この話は、平家物語だけでなく、歌舞伎や浄瑠璃でも取り上げられています。
今回は平知盛の魅力を紹介いたします。
信頼厚い平家の軍師
平安時代後期。
平家の栄光を築き上げた棟梁・平清盛の活躍も、すでに昔語りになっていたころのことです。
当時、平安の隆盛を極めた平家には”驕ごれる人”も珍しくはありませんでした。
そんな中、棟梁・清盛の第二子として誕生したのが平知盛でした。
平家全体に驕りが見られる中、平知盛には驕る様子が見られませんでした。
そのことがよく分かるのが、武蔵国へ赴任したエピソードです。
関東の武蔵国は河内源氏のテリトリー。
桓武平氏の知盛にとってはアウェイでした。
ですが、平知盛はそこでたくさんの平氏家人を獲得しました。
平知盛の武将としての才能と、人間的魅力によるものだと考えられています。
公家的な側面を持ち始めた平家一門にあって、武将としての頭角をみせた平知盛。
実兄の宗盛は文人気質であったため、平清盛は平知盛に期待を寄せていました。
平家を統括していた清盛が死去すると、宗盛・知盛兄弟で仕切っていくことになりました。
そして、それぞれの性質に合わせて、兄・宗盛は政治関係を、弟・知盛は軍事関係を担当することになりました。
源平合戦が勃発すると、平知盛は平家軍勢の指揮をすることになりました。
平知盛は自らも戦場に乗り込み、絶大な信頼を得て、共に戦いました。
壇ノ浦を指揮して果敢に攻めた平知盛
瀬戸内海の制海権を得ていた平家にとって、壇ノ浦の海上戦は勝機があるものでした。
艘数では源氏水軍が上回っていましたが、瀬戸内海における操舵技術と船舶設備を持ち合わせていた平家がリードしていたのです。
しかし、次第に壇ノ浦での戦況が厳しくなっていきます。
理由は、関門海峡の潮流が平家にとって不利になったため、源義経が水夫を矢で討ち殺す御法度に及んだためなど、諸説あります。
壇ノ浦で指揮をとっていた平知盛は、よもや勝機はないと判断しました。
そして実母である二位の尼と甥にあたる安徳天皇の船にあがると、船上の女官たちに見苦しいものはすべて処分するように言いました。
指揮官のひとことに、壇ノ浦までついてきた女性たちは、状況を理解して掃除を始めました。
そんな女性たちと一緒になって、平知盛も掃除をしたといいます。
このときの平知盛に悲観する様子はみられませんでした。
そして、関西出身者ばかりの女官たちに「これまでに目にしたことのない、東国の男たちに会えますよ」と笑ったのでした。
平家物語のハイライト・平知盛の入水
平知盛は「見たいものはすべて見たから自害しよう」と言い、重量のある鎧の上からさらに鎧を着込みました。
自分自身の遺体が浮かび上がらないようにするためです。
敵にさらされて辱めを受けたくなかったのです。
そして、ためらいもなく壇ノ浦へと飛び込みました。
このとき、壇ノ浦まで付き従っていた平家長とともに、しっかりと腕を組んで入水したといわれています。
平家長は、自分を養育した乳母の子どもであるので、乳兄弟ともいえる間柄でした。
猛将とも智将ともいわれた平家の軍師・平知盛。
彼は、当時から敵味方関係なく評価される人物でした。
現在になっても様々な研究が進められていますが、その評価がくつがえることはなく、今も人々を魅了し続けています。