<出典:wikipedia>
はじめに
藤原得子(ふじわら の なりこ)は鳥羽院に愛された女性です。
彼女は、なれるはずがなかった皇后にまで上り詰め、その後の政治に大きく影響を与えました。
得子が政治に与えた影響とは、果たしてどんなものだったのでしょうか?
女御に大出世!
藤原得子の父・長実は院の近臣でした。
しかし上級貴族ではなく特別な後ろ盾もなかったので、本来なら得子は皇后にはなれませんでした。
実際、入内も正式なものでなかったし、鳥羽院との間に生まれた女の子も、鳥羽院の皇后の養子になっています。
しかし、1139年。
”やり手”の得子は待望の皇子、体仁親王を産みます。
このことで得子は女御の地位を手に入れました。
更なる高みへ!皇后になる
当時、身分が低かったとしても、天皇の母親になることはできました。
けれど、皇后になれるかは別問題!
天皇の妻を決めるのは、摂関政治で主導権を握っていた藤原氏だったからです。
ですが、鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、3歳の体仁親王を即位させました。
こうして院政が始まり、政治の主導権を院が握り、得子は院の正妻・皇后に上り詰めました。
『諸大夫の女』はやり手だった!
身分の低い得子に対して、いい感情を持たない人たちはもちろんいました。
摂関家の藤原頼長は、自分の日記の中で得子のことを『諸大夫の女(身分が低い女)』と記しています。
これは得子のことを下に見ている発言ですから、よく思っていなかったと言っていいでしょう。
しかし、身分の低い女性であっても、得子は”やり手”。
近衛天皇が病弱だったため、崇徳上皇の子・重仁親王と雅仁親王(後白河天皇)の子・守仁親王を自分の養子にして、近衛天皇が位を譲っても自分の権力が衰えないようにしたのです。
保元の乱
得子は守仁親王を天皇にしたいと考えました。
近衛天皇即位のため、強制的に譲位させられた崇徳上皇は、鳥羽法皇に対して不満を持っていたからです。
そして、1156年。
鳥羽法皇が亡くなります。
鳥羽法皇の危篤の際。
崇徳上皇は鳥羽法皇のもとに駆けつけていましたが、得子がそれを追い返すという事件がありました。
また、鳥羽法皇は『自分の死後のことは得子に託す』という遺言を残していました。
これがきっかけで、崇徳上皇は挙兵を決意。
しかし、一方の得子はかなりの”やり手”。
平清盛たちに命じて、崇徳上皇方の本陣を襲わせました。(保元の乱)
この戦いはわずか数時間で決着がつき、得子が勝利しました。
『仏と仏の評定』
得子は守仁親王を天皇にするため、まずは守仁親王の父・雅仁親王(後白河天皇)を即位させていました。
そしてついに、後白河天皇から守仁親王に譲位が決まり、二条天皇が誕生しました。
この決定については、記録があります。
後白河天皇から二条天皇(守仁親王)への譲位は、『仏と仏の評定』だと。
この“仏”とは、保元の乱後の政治を仕切った藤原信西、そして得子のことを指しています。
つまり、この譲位は信西と得子、二人で決めたことだということです。
得子は二条天皇の即位の後、44歳で亡くなりました。
鳥羽法皇の死後も、天皇の即位にまで発言権を持っていた得子。
彼女がそこまで権力を保つことができたのは、彼女自身が“やり手”の女性だったからではないでしょうか?