新政府軍と旧幕府軍のあいだで起きた鳥羽・伏見の戦い。
旧幕府の兵力1万5千に対して、新政府軍は約5千でした。
しかし、薩摩側が朝廷の後押しを受けていたため新政府は官軍、旧幕府軍は賊軍という肩書でした。
これにより、幕府軍は士気がそがれ徳川慶喜も戦意を失います。
徳川慶喜は水戸出身で尊王的な思想が強かったため、「官軍」と闘うことを好みませんでした。
しかも、江戸にもどってからは恭順して戦争しないと決めていました。
このことは日本にとって幸運でした。
徳川慶喜により大きな内乱を回避
当時、薩摩・長州側には軍艦はほとんどありませんでした。
それにたいして、幕府は何隻もの軍艦を持っていました。
なので、幕府軍が本気で戦うつもりなら、かなり有利に戦を展開できる状況でした。
しかし、薩摩長州の背後にはイギリスがついています。
薩長が不利になれば当然イギリスが出てくることになるでしょう。
そうなれば、幕府もフランスの力を借りて戦争することになります。
つまり、幕府が戦争を選んでいたら、日本国内でイギリスとフランスの代理戦争が行われることになったのです。
徳川慶喜はここまで読んでいたため戦わなかったと考えるのは考えすぎでしょうか・・・?
1868年に始まった鳥羽・伏見の戦いは戊辰戦争に発展しましたが、慶喜が恭順の意を示したため本格的な戦いはあまりありませんでした。
江戸で幕府内の抗戦派が上野に立てこもって抵抗したのと、奥羽越列藩(おううえつれっぱん)同盟と新政府の戦闘くらい。
天下を二分する内乱を避けることができたのは、徳川慶喜の大きな功績でした。
維新の元勲たちもこれを分かっていたため、慶喜は許され公爵の地位となります。