徳川慶喜(よしのぶ)が1867年10月に大政奉還を申し出ます。
これは、徳川幕府にとって致命的なことでした。
幕府が諸大名に対して力を持っていたのは、徳川家康がすべての武家を支配するものとして征夷大将軍となり、さらに太政大臣になって公家を支配する地位も獲得したためでした。
しかし、大政奉還によってその地位を朝廷に返してしまい、徳川家と他の大名との差がなくなったのです。
これを受けて2か月後、王政復古の大号令が出され、同日に京都御所内で小御所会議が開かれます。
この会議は以下のようなメンバーで開かれます。
・ 有栖川野宮熾仁(ありすがわのみやたるひと)親王などの皇族
・ 正親町三条実愛(おおぎまちさんじょうさねなる)、岩倉具視(ともみ)などの公家
・ 山内容堂、島津忠義、松平春嶽(しゅんがく)などの旧藩主
・ 大久保利通(としみち)や後藤象二郎などの新政府の要人
会議には公武合体の名のもとに代表的な大名や公家が集まっていました。
岩倉具視のかけ引きで一気に倒幕へ
会議中、山内容堂が「この会議に徳川慶喜を呼ばないのはおかしい」と発言。
さらに「ここに集まっているものたちは天皇がお若いのをいいことにして自分が天下を取り天下を欲しいままにする気か!?」と続けます。
それに対し、岩倉具視が反論。
「天皇はお若いのに聡明でいらっしゃる。何たる失礼なことを言うのだ!!」と怒ってみせ、さらに
「慶喜がここに列席するには、まず慶喜自身が恭順の意を表さなければならない。徳川が領地を差し出し官位を捨てるなら出席を認めよう!!」と加えます。
この議会には御簾の奥に明治天皇もいました。
そのため、山内容堂はそれ以上発言できなくなってしまいます。
そこからは、岩倉の思惑通り天下は倒幕にむかって動き出し、新政府軍と旧幕府軍が京都郊外で衝突して鳥羽・伏見の戦いが起こったのです。
維新四大偉人として挙げられるのは、西郷隆盛、大久保利通、木戸孝允、岩倉具視の4人。
3人の大名の中に公家である岩倉具視が混じっているのは、どうやらこの会議に理由があるようです。
会議が行われる前、最も無難な案は「公武合体論」でした。
“公”とは朝廷。
“武”とは武家・大名のこと。
つまり、徳川家をはじめとする大名が集まって合議し、朝廷とともに政治を行うという考えでした。
しかし、小御所会議で岩倉具視が発言したことで、一気に「倒幕新政」に変わったのです。
もし、岩倉の発言がなければ公武合体の奉公でことが進んでいたことでしょう。
この経緯があったからこそ維新の元勲たちは岩倉を尊敬し、維新四大偉人に名前があげられるようになったのです。