黒船来航に悩む幕府に強力な助っ人、中浜万次郎(なかはままんじろう)が現れます。
万次郎は海で遭難しアメリカの捕鯨船に救助されたあとアメリカ本土に渡り生活していました。
この万次郎が帰国すると、幕府はいろいろ話を聞いて、アメリカの真意を聞きます。
・アメリカには日本を征服する気はない
・捕鯨船の水や物資補給のための避難港が欲しい
・できれば貿易もしたい
アメリカの侵略におびえていた幕府は、上の3つの内容を聞いて安堵します。
しかし、それを幕府内の秘密ごとにしてしまったため、事情を知らない大名たちは攘夷を叫び外国船を排斥しようとします。
そこで、井伊直弼が(いいなおすけ)が攘夷派の弾圧を行い、知識人たちを処刑してしまいます。
また、攘夷の考えを持っていた孝明天皇から許可を得られないままアメリカと修好通商条約を結んでしまい、次の将軍も強引に決め反対派の大名を処罰してしまいます。
こうして、井伊直弼は様々な勢力から反感を買ってしまいます。
井伊直弼の弾圧と反対派の襲撃
さらに1858年。
朝廷が井伊直弼のやり方の責任を問う密勅を出すと、井伊直弼はこの動きを察知し反対派を激しく弾圧。
これが「安政の大獄」です。
安政の大獄では、幕末四賢候の側近、橋本佐内が斬首。
尊王攘夷運動の急先鋒・梅田雲浜や頼三樹三郎や、明治維新の精神的指導者である吉田松陰などが死罪。
井伊直弼を糾弾しようとした水戸の徳川斉昭(なりあき)は謹慎させられてしまいます。
井伊直弼が開国を選んだことは正しかったのだと思えます。
しかし、あまりにも強硬なやり方をして多くの人を死に追いやったため、幕府の信用を低下させてしまいました。
そして、1860年。
水戸藩士と薩摩藩士により井伊直弼の行列が襲撃され、井伊はこの世を去ります。
白昼堂々、城の前で、わずか二十人の浪人が、幕府の最大権力者を暗殺。
これは、武士たちにとって大事件でした。
自分たちの君主のさらに上の存在だった幕府が思っていたよりも小さなもので、自分たちの力で簡単に動かせる印象を持ってしまいます。
この桜田門外の変からわずか7年後に大政奉還が行われ、さらに2年後明治天皇が江戸城に入ったことからも、この事件が与えたショックの大きさが伺えます。