松平定信が11代将軍の徳川家斉(いえなり)と対立して、「寛政の改革」はわずか6年で終わりを告げました。
世の中が再び自由を取り戻すと、江戸文化が活気を取り戻します。
『東海道中膝栗毛(とうかいどうちゅうひざくりげ)』や『南総里見八犬伝』、『にせ紫田舎源氏』などがベストセラーになり、文学が栄えました。
だが、自由な時代が長く続くと次第に幕府内の風紀も乱れてきます。
そこで、老中、水野忠邦(みずのただくに)が天保の改革を行います。
わずか2年で破綻。実情を無視した天保の改革
水野忠邦は1839年に「蛮社の獄(ばんしゃのごく)」を行い、蘭学のリーダー達を死に追いやったり追放したりしてしまいます。
開国が迫ってきたころに砲術の専門家などを失ったのは、日本にとって大損害となりました。
実権が徳川家慶(いえよし)に移ると、水野忠邦は家斉のもとで汚職を繰り返していたものたちを千人以上処罰します。
さらに、町民に対しては娯楽を制限して贅沢を禁止。
風俗の取り締まりも強化します。
また、十組問屋(とくみどんや)の特権を廃止して、誰でも江戸・大阪間の商業取引を自由にできるようにします。
これにより、清い商業体系ができることを期待した水野忠邦でしたが、結果はイマイチ。
もともと、十組問屋の制度は商業と承認に対する嫉妬や憎悪から自然に発生した政策で、代案がありませんでした。
それを一気に無くしてしまったため、貨物は動かなくなり金融が止まり、ものが少なくなって物価が上がってしまいます。
こうして、経済の発達や生活水準の向上を無視した政策はわずか2年で破綻。
水野忠邦は失脚してしまいます。
商人を憎み豊かな町人を潰し贅沢をやめさせるような政策をしていた水野忠邦が失脚すると、数千人ともいわれる群衆が彼の屋敷に押しかけて石を投げたといいます。