8代目将軍、吉宗の後は家重が後を継ぎます。
この時、田沼意次(たぬまおきつぐ)が大名に取り立てられ次の将軍徳川家治(いえはる)の時に老中に抜擢されます。
田沼意次はもともと低い身分でしたが、異例の出世で「田沼時代」といわれるほどの権勢を手に入れます。
田沼の時代は江戸の歴史上、最も評判の悪い時代です。
その理由は賄賂と汚職。
しかし同時に洋学も栄え、『解体新書』の刊行や『万葉集』の研究、『古事記伝』も著されます。
俳画の創始者である与謝蕪村(よさぶそん)の登場や、葛飾北斎(かつしかほくさい)、東洲斎写楽(とうしゅうさいしゃらく)、北川歌麿(うたまろ)なども登場し浮世絵が成熟します。
見方によっては雅と俗が上手く混ざり合った、最も江戸らしい時代でもあったのです。
この時期、ロシアが北方に姿を現し始めます。
そこで田沼は、北海道の開発を考え調査団を派遣。
アイヌの生活や風土、地理などを調べさせます。
さらに、当時一番困窮していた被差別部落の人達を北海道に移住させようとします。
これが実行されれば、差別されていた人たちが差別のない地で生活できるようになり、部落問題も解決!!・・・の予定でした。
しかし、この計画は実行する前につぶされてしまいます。
飢饉や地震の発生により田沼が失脚
また、手賀沼を干拓して田んぼを作る計画もありましたが、この時期は異常気象が続き、天明の大飢饉が発生。
計画は失敗に終わります。
田沼意次が老中になっていた1772年から1786年までの15年間は、川の凍結や氾濫、火山の噴火、津波と地震、大飢饉など天変地異が相次ぎます。
特に1783年の異常気象は世界的なもので、アイスランドではラキ火山が噴火し、冬はロンドンを大寒波が襲っています。
儒学の思想では為政者が悪いと天が怒り、天変地異が起こるということになっています。
その影響もあり、経済改革を進めていた田沼意次は志半ばで失脚してしまいます。