1585年。
羽柴秀吉は朝廷から関白の宣旨を受け、翌年、太政大臣に任命されて豊臣の姓をもらいます。
秀吉は勢いに乗って、紀州の根来(ねごろ)・雑賀(さいか)衆、高野山を制圧すると、その後、四国や越中の実力者を討っていきます。
戦が上手く最大の敵であった徳川家康に対しては、妹の朝日姫を嫁がせて義理の兄弟という関係を作り、母親を人質として差し出します。
こうして家康側もやむなく秀吉の臣下にくだります。
家康の脅威から解放された秀吉は、本格的に九州征伐を開始。
島津を降伏させます。
1587年には、北野の大茶会を開き、公家・諸大名だけでなく民衆も参加させて華やかに茶の湯を楽しみます。
1589年には大名や公家に総額36万5千両の大判小判を配ります。
多くの金銀を積むも、用いざれば瓦や石に同じ
そういって、宝をみんなで分け合ったのです。
北条氏が小田原城で最後まで抵抗
最後まで秀吉に従わなかったのは小田原城の北条氏。
小田原城は上杉謙信や武田信玄も落とすことができなかった難攻不落の城で、秀吉は26万の軍勢を送りますが、100日以上も戦いが長引きます。
結局、北条氏直(うじなお)が自分以外の将や兵の命を助けることを条件に降伏します。
こうして天下統一がなされると、秀吉は小田原城に入城して所掌の論功行賞を行います。
家康には北条の領地のうち、伊豆、相模、武蔵、上総、下総、上野の六国が与えられ下野と安房(あわ)を下につけました。
しかし、安房には里見氏、上野には佐野氏、下野には宇都宮氏や那須氏がいて秀吉が彼らを保護していたため、家康の領土にはなりませんでした。
しかも、秀吉は家康先祖代々の土地である三河など、家康の旧領を取り上げます。
当然、家康の家臣たちは腹を立てますが、家康がこれを承諾。
つねに勇猛な家康が我慢するということで、家臣たちも我慢して家康についていきました。