戦国時代|1592年 文禄の役(ぶんろくのえき)

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秀吉の朝鮮進攻の理由については様々な説がありますが、秀吉はかなり前から大陸に関心を抱いていて、九州の次に朝鮮、そして中国を見ていました。

1587年。

秀吉は対馬の宗家に「中国を攻めるために朝鮮を通るから、朝鮮に行って話をつけてこい」と命じます。

また、「日本に来て天下統一を祝う言葉を述べろ」ということも伝えさせます。

 

命令を受けた宋義智(そうよしとし)の努力により、朝鮮の通信使が日本の天皇のところまで行き、祝いの言葉を述べます。

しかし、秀吉は朝鮮の国王が来なかったことに不満を持ちます。

また、朝鮮からの使者は天下統一を祝うだけでしたが、これも秀吉の意図していた者とは違ったため、宋義智は通信使の来日を「服従の証」であると言いつくろいます。

その後、朝鮮も中国も秀吉を相手にしなくなります。

 

天下人豊臣秀吉による朝鮮出兵

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1591年。

秀吉は朝鮮出兵の命令を出します。

このときの秀吉にとって、頭にあったのは中国に入ることだけでした。

朝鮮に上陸した日本軍は快進撃を続けます。

4月12日 釜山に上陸
4月13日 釜山城(ふざんじょう)が陥落
4月14日 東萊城(とうらいじょう)陥落
4月26日 慶州を占領
5月3日 漢城を占領
6月15日 平壌城(へいじょうじょう)を占領

日本軍の進撃の速さはすさまじく、中国では「朝鮮が日本軍を誘導しているのでは?」と疑うほどでした。

 

ただ、日本軍唯一の弱点は水軍でした。

船がお粗末だったというだけではなく、指揮官がおらず戦い方もバラバラ。

仲間割れを起こすこともたびたびありました。

この理由は、もともの輸送船団だった人たちがそのまま水軍として利用されたことにあります。

 

しばらくして、突然、中国軍(明軍)が現れます。

風雨で視界が悪く、音も聞こえないときに、平壌城に夜襲をかけてきます。

中国軍を舐めきっていた日本軍はあわてて鉄砲で立ち向かいます。

中国軍の騎馬隊VS日本軍の鉄砲隊

城の中では騎兵は身動きを取れず、なんとか日本の勝利に終わります。

この戦いで、中国軍は大将格が二人死亡。

中国の宮廷は愕然とします。

物資が不足!和平交渉と撤退

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日本軍は日本軍で、士気が低下していました。

水軍が弱すぎて食料を補給する船がほとんどやってこないうえに、日本から遠く離れた平壌での戦い。

この孤立感は、武士たちに大きな影響を与えます。

しかも、朝鮮の自然環境は厳しいのに、冬の準備も全くできていない。

疫病も流行し、毛利輝元や秀吉の養子である秀勝も病に伏してしまいます。

追い詰められた日本軍は、秀吉に無断で和平交渉をはじめます。

 

交渉相手は中国の沈惟敬(しんいけい)。

ひとまず休戦状態にしようという約束がかわされます。

休戦状態ということで、偵察も防備もゆるくなった日本軍。

そこに中国軍が総攻撃を仕掛けてきます。

中国軍4万5千 VS 日本軍1万5千

三倍の敵に立ち向かった日本軍ですが、食料庫に火が入ると日本軍は漢城に逃げ、碧蹄館で中国軍を待ち受けます。

日本軍は中国軍を引き付けてから、鉄砲で一斉射撃。

この戦術を知らなかった中国軍は総崩れとなり、逃走します。

 

なんとか、中国軍を倒した日本ですが、食料が十分に届かない日本は満身創痍。

石田三成や小早川隆景など大名全員の署名入りで、「日本軍が漢城で餓死し始めている。中国も講和に熱心である」という手紙を秀吉に送ります。

こうして、ようやく朝鮮からの撤退命令がでて引き上げることになります。

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