1572年。
織田信長が最も恐れていた甲斐(かい)の武田信玄が上洛を始めます。
まず、攻撃を受けたのが同盟関係にあった徳川家康。
信長は越後の上杉謙信と結んで家康を助けることにしますが、織田・徳川連合軍は三方ヶ原の戦いで惨敗。
このまま、武田信玄が天下を統一するかの勢いでしたが、1573年に信玄は病死してしまいます。
信玄の遺志を継いだ武田勝頼は、再び京都を目指して進攻。
長篠城を包囲した勝頼軍VS織田・徳川連合軍の戦いがはじまります。
この戦いを、長篠の戦いといいます
武田側から徳川に寝返った奥平貞昌(おくだいらさだまさ)が守る長篠城。
これを武田軍が包囲し、落城寸前まで追い詰めます。
しかし、ここで織田・徳川連合軍が到着。
長篠城手前の設楽原に陣を敷きます。
武田四天王と呼ばれた馬場信房(ばばのぶふさ)・山縣昌景(やまがたまさかげ)・内藤昌豊(ないとうまさとよ)は、信長の大軍に対していったん引くことを進言。
しかし、勝頼は決戦を選んでしまいます。
鉄砲隊に敗れた最強の騎馬隊
最強の騎馬隊を持つ武田軍に対して信長が取った策が、鉄砲隊による集団戦法。
馬防柵を築きその後ろに数千の鉄砲隊を置きます。
馬房策と鉄砲隊との間にはスペースもあり、ここから槍部隊がいつでも出撃できるように準備していました。
信長の作戦に見事はまってしまった武田軍は壊滅。
主な武将は全員戦死してしまい、武田勝頼は甲斐に逃げ帰ります。
この作戦は非常に近代的で、西洋で同じような策が使われたのが、長篠の戦から約100年後。
このことからも信長が戦いの天才であったことが伺えます。
しかも、長篠の戦いで圧勝したにもかかわらず信長は状況を見てじっくりとチャンスを待ちます。
いったん兵を引き上げると、ゆっくりと攻めて武田軍を消耗させます。
武田四天王の最後の一人、高坂昌信(こうさかまさのぶ)が死に信長の武田征伐がはじまると、諸将軍は次々と織田・徳川方に降参。
重臣の小山田伸茂(おやまだのぶしげ)も裏切り、武田勝頼は天目山で自害します。
武田軍に圧勝した織田信長にとって次の脅威は上杉謙信でしたが、謙信も出陣前に急死してしまい信長の天下統一が近づきます。