秀吉の一世一代の大英断。中国大返し

<出典:wikipedia

1582年の本能寺の変で織田信長を自害させた明智光秀は、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)によって山﨑の戦いで滅ぼされました。
信長の訃報を知ったときの秀吉は、備中高松城攻めの真っ最中。
そんな秀吉が光秀を討って信長の仇を取り、天下人への切符を入手したのは、「中国大返し」を決断し、成功させたからです。

なぜ秀吉は無謀な中国大返しを行ったか?

明智光秀勢約1万3千人に対し秀吉勢約3万人という規模で戦われた山﨑の合戦。
この戦いは、秀吉にとって織田信長の弔い合戦的意味もありましたが、それ以上に彼にとって天下人を狙うチャンスでした。
だからこそ、秀吉は無茶とも思える中国大返しを実行しました。

素早い中国大返しができた決断のポイントとは?

秀吉がここまで素早い決断ができたのには2つ理由があります。

【その1.信長の訃報をいち早く知ったから】

秀吉は信長との連絡用に、あらかじめ情報網を張り巡らしていました。
おかげで秀吉は毛利氏への高松城攻めの最中に、明智光秀から毛利氏宛へ本能寺の一件を伝える密書を運ぶ使者に気づくことができました。
「信長死す」の大事件を知った秀吉は、本能寺の変の2日後には、高松城主である清水宗治(むねはる)の切腹と高松城開城を条件に講和を成立させました。
そしてすぐに軍をまとめて高松を発つ段取りをしたのです。
そのあたりの素早さは、さすが秀吉です。
もしも毛利が先に訃報を知っていたら、秀吉の立場は随分違っていたでしょう。

【その2. 軍師・黒田官兵衛の鋭いアドバイスがあったこと】

黒田官兵衛は、彼自身も天下取りを狙っていたと言われる切れ者軍師です。
チャンスに敏感だった彼は、信長の死を驚き悲しむ秀吉に「今こそがあなたの天下取りの好機到来ですぞ」と囁いたといいます。
頭のいい秀吉は、すぐに明智光秀を討てば、光秀の行動は単なる謀反となり、それを征伐する自分が信長に続く次の天下人になれると判断しました。
同時に、そうしなければ秀吉軍は、信長の本拠地尾張から遠く離れた中国で、孤立する危険もあったのです。

■中国大返しの行程

本能寺の変が起きたのは、6月2日。
あくまでも信長の死は毛利に隠したまま、秀吉軍がまず本拠地である姫路城へと向かったのが6月6日です。
光秀軍が中国にいる秀吉を攻めてくる前に、逆に秀吉が猛スピードで13000の軍勢を進ませ、関西にいる光秀軍を攻める必要がありました。
移動の途中、秀吉は、他の武将たちが光秀側になびかぬように「信長は死んでいないぞ」と、いう虚報を流すことも忘れません。

秀吉軍の必死の行軍で本能寺の変からたった5日か6日後に姫路城へと到着。
そこで兵たちにまずゆっくり休息をさせ、食料と金銀を充分に与えました。
軍の士気が上がったところで、6月9日に姫路を発ち、大坂へと進んだのです。
途中、信長ゆかりの他の武将たちも秀吉の呼びかけに加わり、3万近くに膨れた秀吉の軍勢は6月13日に山﨑に到着しました。
高松から山﨑までの全行程は約200kmです。
わずか8日で移動完了した羽柴秀吉軍は、1日約25kmのスピード移動を実現していました。

山﨑の合戦へ

約3万の秀吉軍とまともに戦うには、光秀軍の1万3千は明らかに不利でした。
桂川と天王山に挟まれた山﨑で少しでも有利に迎え討つ考えだった光秀ですが、秀吉は先手を打って、軍に要所を抑えさせていました。
合戦は秀吉優勢で開戦し、結果光秀軍の惨敗で終了。
光秀は敗走途中で亡くなりました。
明智光秀の天下はわずか11日に終わってしまったのです。

山﨑の戦いに勝利した秀吉は、信長の正統な後継者として世に打って出ました。
その後の秀吉の出世ぶりを見れば、中国大返しがいかに重要なポイントだったかは明白です。

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