夜討ちの大将・塙団右衛門の 命を賭けた売名行為

<出典:wikipedia

出自、素性についてはよく分かっていませんが、
戦国時代から江戸時代初期に塙直之(ばんなおゆき/1567-1615年)と呼ばれる武将がいました。
のちには塙団右衛門(ばんだんえもん)とも名乗っており、こちらのほうが通りが良いので、ここでは団右衛門で統一します。

団右衛門は、恐れを知らない強者で、目立つのが大好きでした。

「大活躍」で出世した後の「大叱責」

織田信長や北条綱成(ほうじょうつなしげ)などに仕えたと言われる団右衛門。
1590年ごろには、豊臣秀吉の家臣である伊予国松山の大名・加藤嘉明に召し抱えられていました。

彼が最初に武功を立てたのは、1592年の文禄の役(朝鮮出兵)でした。
少年時代からガッチリした体格の団右衛門は、4反もある大指物(背中に挿す旗の一種)を背負い、敵にも称賛されるほどの大活躍。
朝鮮の番船を乗っ取るという大手柄を上げて、1000石の鉄砲大将に取り立てられました。

ところがその後、彼は個人プレイで名を売ろうとしました。

1600年。
関ヶ原の戦いで鉄砲大将だった彼は、命令に従わず、指揮する足軽を勝手に突撃させてしまい、自分も槍を取って抜け駆けを試みました。
主君の加藤嘉明は「所詮は大将にはなれない器」だと彼を大叱責。
それを逆恨みした団右衛門は、
「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎」
(小さな水に留まらず、カモメは天高く飛ぶ)
という漢詩を書き残して出奔してしまいました。
漢詩を見た加藤嘉明は激怒して、彼を「奉公構(ほうこうがまえ/他家が召し抱えないように回状を回すこと)」としました。

浪人・団右衛門

加藤嘉明よりも格上の小早川秀秋は、奉公構の団右衛門を構わず召し抱えました。
しかし、1602年に秀秋が死没して家が断絶。
団右衛門は、次に徳川家康の息子・松平忠吉に仕えますが、またもや主君が亡くなり家も断絶してしまいました。
その後、福島正則が馬廻りとして彼を召し抱えますが、加藤嘉明が奉公構を守るよう抗議したので、団右衛門は罷免され浪人となってしまいました。

武士として生きることに諦めたのか、一時は仏門に入って「鉄牛」と号した団右衛門。
しかし、刀を差したままの姿で托鉢するという非常識さで、檀家の不興を買いました。
1614年の大坂冬の陣には還俗(出家者が再び俗人にかえること)して大坂方につき、浪人衆の一人として加わりました。

塙団右衛門の名前が天下に知れ渡ったのは、この後でした。

セルフ・プロデュース能力発揮で調子に乗った

1614年11月17日に徳川方の蜂須賀至鎮(はちすかよししげ)の陣に夜襲をかけ、戦功を挙げました。
本町橋の上で仁王立ちになって大声で指示を出した団右衛門。
目立ちに目立ち、自分が「大将の器」であることを大々的にアピールしたのです。
その上なんと彼は、「夜討ちの大将 塙団右衛門直之」と記した木札を現場にばらまく自己PRまでしでかしました。

売名行為の効果は抜群でした。

1615年4月29日樫井の戦いという前哨戦で、大野治房本隊の先鋒となりました。
その時に仲が悪かった別の武将が先行していることを知った団右衛門は、意地になり、
大将だというのにまたしても部隊を放っておいて、自分だけが一番槍の功名を狙いました。
しかし、今回ばかりは個人プレイが通用せず、先陣を切って敵陣に飛び込んだ団右衛門は、討ち死にしてしまったのでした。

任された隊の指揮官としては間違いなくダメ印の塙団右衛門。
それでも、生前は彼本来の勇猛さと腕の良さで戦場では華々しく活躍しました。
あつかましいほどのPR能力も見事でした。
おかげで後世では講談や小説で「夜討ちの大将」として多くのエピソードが語り継がれ、庶民の人気者になりました。
まあ、本人は生きているうちにもっと有名になりたかったのでしょうけれど。