[前九年の役] 鶴岡八幡宮に隠された源頼義の想い

<出典:wikipedia

鶴岡八幡宮は平安時代から鎌倉時代まで、源氏の人間たちを見守ってきた神社。
平安時代中期に源頼義が創建し、源頼朝が先勝祈願したり、源義経の側室・静御前が演舞したりした場所です。

鶴岡八幡宮は、前九年の役を治めた陸奥守・源頼義のある想いが込められ、建てられました。
その理由とは何だったのでしょうか?

弓の腕前で知られた源氏の御曹司

河内源氏の初代棟梁・源頼信の嫡男である源頼義は、源氏の御曹司として育てられました。
その弓の腕前は、今昔物語集にもみられるほど凄いものでした。

源氏の御曹司だった源頼義ですが、桓武平氏の婿にもなっています。

平忠常の乱が勃発したとき、討伐を指揮したのは桓武平氏の平直方。
しかし、討伐に失敗し更迭されてしまう。
そこで白羽の矢が立ったのが河内源氏。
源頼義を見込んで「娘の婿になって欲しい」と頼み込んだことで、源頼義は婿入りとなる。

このとき、源頼義は娘婿として桓武平氏の所領から郎党にいたるまで譲り受けました。
これが関西を拠点としていた清和源氏の東国への足掛かりとなりました。

清和源氏と桓武平氏の嫡流にある夫婦は仲睦まじく、源頼義はひとりの女性を愛したといわれています。
源氏の棟梁を継ぐ人間として、跡継ぎにも恵まれました。
嫡男は鎌倉幕府を興した源頼朝の先祖にあたります。

前九年の役に勝利した老将軍

平安時代中期。
東北地方の陸奥は、安倍氏という一族が支配していました。
安倍氏は、朝廷に租税をおさめていたため、もめごとはありませんでした。
しかし、あるときから納税が滞るようになりました。
そのため、陸奥守にあった藤原登任が討伐を指揮しましたが、失敗してしまいました。

陸奥守から更迭された藤原登任の後任として、陸奥守になったのが源頼義でした。
ですが、阿部氏討伐にストップがかかります。
天皇の祖母である藤原彰子が体調を崩し、病気平癒の一環として安倍氏に恩赦が適用されることになったのです。
陸奥守・源頼義と地元豪族・安倍氏は、この恩赦をきっかけに和解し、任期満了までつつがなく陸奥守の仕事をこなしました。

任期を終え、陸奥地方を離れることになった源頼義。
安倍氏からは、送別会をしてもらいました。
しかし、帰路で野営しているところ「別行動をしていた部下たちが安倍氏による夜討ちにあった」との報告を受けました。
この「阿久利川事件」をきっかけに武力衝突になりました。
(夜討ちは、安倍氏の意向ではなかった可能性もある)

源頼義の娘婿であった平永衡は、安倍氏に寝返ったことがあったため、周囲から疑いの目を向けられました。
源頼義も思うところがあったのでしょう。
平永衡を斬り捨てました。
しかし、この出来事により、疑心暗鬼になったもう一人の娘婿・藤原経清は、安倍氏に寝返ってしまいました。
そのため、源頼義の形勢が危ぶまれましたが、なんとか盛り返していきました。

最期は命を落とした人々の供養に捧げた

泥沼化する前九年の役。
源頼義は何度も劣勢に追い込まれました。
しかし、出羽の豪族・清原氏を取り込むこんだことで、安倍氏を滅亡に追い込みました。
制圧まで、なんと12年という歳月を要しました。

ようやく都へ凱旋したとき、源頼義はすでに75歳。
功績が認められ、伊予守という栄誉ある職をもらいました。
また、陸奥守の交代が検討されましたが、現地の兵たちが源頼義以外を認めなかったので、そのまま源頼義が陸奥守となりました。
ただ、源頼義が現地へ向かったのは2年後でした。
前九年の役に貢献した部下たちの恩賞のために、あちこちに掛け合っていたためだと言われています。
ちなみに、この2年間で納めなければならない伊予守としての租税は、ポケットマネーから出したそう。
部下思いである一面が垣間見えます。

伊予守の任期を満了してからは、出家して”命を落とした者たち”を弔うようになりました。
その一環として河内源氏の氏神・石清水八幡宮をもって、鶴岡八幡宮となる鶴岡若宮を設置しました。
鶴岡八幡宮には、源氏棟梁・源頼義の、敵味方関わらず弔おうとする想いが込められているのです。

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