2017年– date –
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1709年 新井白石がシドッチと出会う
甲府藩主である徳川綱豊(つなとよ)に学問などを教えていた新井白石は、綱豊が六代将軍・家宣になったから幕政に登用されます。 その後、次の将軍家継まで二代にわたって政治を補佐します。 1708年。 屋久島に和服を着て刀を持ったイタリア人、ジ... -
江戸時代|1702年 赤穂浪士(あこうろうし)の仇討ち
江戸幕府5代目将軍、徳川綱吉の時代に元禄(げんろく)文化が花開きます。 関ヶ原の戦いから90年近くたち平和な時代が続くと、経済が発展し町人たちもバブル景気を楽しみます。 この頃、綱吉が犬を殺してはいけないという法律『生類憐みの令』を出します。... -
江戸時代|1657年 『大日本史』作成開始
水戸(徳川)光圀は1657年に日本の史書『大日本史』作成を開始。 なんと250年かけて完成に至ります。 この歴史書は、200年後の幕末尊王思想に大きな影響を与えます。 水戸光圀は江戸駒込の別邸を小石川本邸に移すと、本格的に『大日本史』の編纂に... -
戦国時代|1614年 大坂冬の陣
関ヶ原の戦いでは福島正則や加藤清正など「豊臣恩顧の大名」が奮戦して、家康軍が勝利しました。 このことをよく分かっていた徳川家康は、石田三成の軍が敗けたあと豊臣家を心配する大名たちに十分に配慮。 家康は将軍になると、秀吉と生前に約束したとお... -
戦国時代|1600年 関ヶ原の戦い
大名の中で突出した力を持っていた徳川家康。 豊臣秀吉の亡くなった翌年、唯一家康を抑える力を持っていた前田利家も亡くなると、いよいよ家康の権勢が大きくなります。 家康は、挑発的な態度をとってくる上杉景勝を討つため、大軍を率いて会津へ向かいま... -
戦国時代|1598年 豊臣秀吉が亡くなる
足軽というものすごく低い身分から成り上がり、日本のトップにまで上った豊臣秀吉。 しかし、晩年の秀吉は若い頃の見る影もなく、哀れな最後を遂げます。 秀吉の戦は、織田信長のように敵を潰すのではなく、降伏させることを重んじていました。 「... -
戦国時代|1597年 慶長の役(第二次朝鮮出兵)
前の朝鮮出兵(文禄の役)では中国への侵攻が目的でしたが、第二次朝鮮出兵は「礼を欠いた朝鮮」を成敗することが目的でした。 軍勢は前回の半分の約14万人。 1597年。 蔚山城(うるさんじょう)の戦いが始まります。 戦の拠点とするため日本軍は蔚... -
戦国時代|1596年 中国(明)の国使を追い返す
朝鮮出兵で快進撃を続けるも、水軍が弱く食料補給ができなかった日本は撤退します。 中国軍も日本の戦術に大打撃を受け、和平交渉が始まります。 豊臣秀吉は、朝鮮出兵で日本軍は勝利したと考えていました。 そのため、中国と和平交渉するときに七... -
戦国時代|1592年 文禄の役(ぶんろくのえき)
秀吉の朝鮮進攻の理由については様々な説がありますが、秀吉はかなり前から大陸に関心を抱いていて、九州の次に朝鮮、そして中国を見ていました。 1587年。 秀吉は対馬の宗家に「中国を攻めるために朝鮮を通るから、朝鮮に行って話をつけてこい」と命じま... -
戦国時代|1590年 羽柴秀吉が天下統一
1585年。 羽柴秀吉は朝廷から関白の宣旨を受け、翌年、太政大臣に任命されて豊臣の姓をもらいます。 秀吉は勢いに乗って、紀州の根来(ねごろ)・雑賀(さいか)衆、高野山を制圧すると、その後、四国や越中の実力者を討っていきます。 戦が上手く最大の敵...