アメリカのペリーが黒船で浦賀にやってきます。
この頃日本近海に現れたのはペリーだけではありませんでした。
1804年。
ロシアのレザノフが通商を求めて長崎に来航。
1808年。
イギリスの軍艦フェートン号が長崎に侵入。
など・・・。
これに対して、幕府は1825年に「異国船打ち払い令」を出しますが、あまり真剣に対応していませんでした。
ところが、今回のペリー来航ではアメリカ側が執拗に開国を迫ってきました。
以下のような歌も詠まれ、町人や農民までもが眠れず騒然となっている様子がうかがえます。
泰平の 眠りをさます じょうきせん(上嬉撰・蒸気船)
たったしはい(四杯・四隻)で 夜も眠れず
相談により権力を低下させた江戸幕府
この事態に、幕府だけでは対処できず、老中首座の安部正弘が諸大名に相談します。
しかし、これは悪手でした。
諸大名に相談したことで、国の政策は会議で決定するという考えが広まり幕府の権威を下げてしまいます。
幕府には鎖国を続けられないことが、すぐに理解できていました。
黒船が江戸湾に入ってきて江戸城を砲撃されたら、止めることができません。
なので、開港に向かって動き始めます。
安部正弘の後を継いだ堀田正睦(まさよし)もアメリカ駐日総領事ハリスに登城を許し、ハリスの上申書を諸大名に見せて意見を集めます。
これは幕府の自信の弱さの表れでもあり、諸大名の幕府への信頼がさらに低下します。
さらに1858年。
朝廷に修好通商条約を結ぶお伺いを立てるときに、朝廷の外交への発言権が生まれ、公家たちのなかで外交に対する議論が白熱します。
こうして、幕府崩壊へのカウントダウンがはじまります。
その後、日米修好通商条約が調印されると、攘夷に熱心だった孝明天皇が激怒し、「尊皇攘夷」のスローガンが生まれることになります。