幕末に生じた尊王思想。
それにもっとも影響を与えた歴史書が頼山陽(らいさんよう)の著した『日本外史』でした。
頼山陽は朱子学者である頼春水のもとに生まれます。
日本の歴史書が好きで、若いころから『日本外史』書き始めていました。
文章が桁外れに上手かった頼山陽は歴史書を講談のように読みやすく書き、他のものと比べても面白さがとびぬけていました。
山陽の父は松平定信と関係が深かったため、『日本外史』の噂が松平定信の耳に入ります。
そこで、山陽は源氏と平氏が起こったところから徳川政権がはじまる前までの江戸幕府に差しさわりない部分だけ献上します。
また、将軍家に触れるときは改行して他の文章より一字上に。
朝廷について書くときは二字下に書き、幕府と朝廷の関係を示します。
尊王の志士を奮起させた山陽の文才
定信に献上した2年後に全22巻が発刊されます。
内容は平家が登場してから徳川12代将軍 家慶までで、最後の文章は
「源氏、足利以来、軍職にありて太政大臣の官を兼ねるものは、独り公(家康)のみ。
蓋し(けだし)武門の天下を平治すること、これに至りてその盛を極む」
となっています。
幕末の志士たちはこの文章を読んで、「武門の盛りの極み」とは「皇室の衰微の極み」であると解釈。
皇室が衰退したと考えた志士たちは、憤激して討幕への気持ちを高めます。
ここで注目すべきは、徳川幕府を一言も批判していないのに、尊王の志士を奮起させた山陽の才能です。
この『日本外史』は幕末から明治にかけて非常によく読まれ、維新の志士のほとんどが頼山陽を読んでいました。
『日本外史』を完成させた後、頼山陽は『日本政記』を書きます。
この歴史書は神武天皇からはじまり天皇中心に第107代後陽成天皇の時代(朝鮮出兵の時代)までをコンパクトにまとめ上げたものでした。