田沼意次が失脚すると、つぎは松平定信が老中になり寛政の改革を実行します。
田沼はもともと低い身分の人物でした。
身分が高くて有能な人間にとって、これは非常に面白くない!!
この思いは松平定信にもありました。
徳川八代将軍吉宗の次男の子どもで、奥州白河松平家の養子になった松平は、幕政に参加すると田沼を失脚させます。
しかも、田沼の5万7千石の領地を奪い江戸屋敷を取り上げたというから、相当不満があったことが分かります。
松平定信の清くて清すぎる政治
松平定信は、尊敬する祖父・徳川吉宗の享保の改革にならい、白河藩で成功した方法を使って改革を進めていきます。
藩士の税を減らし、倹約を進め、年貢を免除し、食料の緊急移入を行う。
農業を重視した政策をします。
しかし、前の田沼の時代では商業重視の政策をしており、商業が経済をまわしていました。
そんな状況の中、いきなり農業重視の政策をしても上手くいきません。
松平定信が行った倹約令では、武士に衣服の新調を禁止され、家も壊れた時以外の建設が認められなくなります。
町人も身分不相応な着物を着ていると奉公所に引き立てられ、おもちゃやお菓子など贅沢品はすべて禁止されてしまいます。
商業中心で消費生活を送っていた江戸では、この政策により失業者があふれてしまいます。
そこで、石川島あたりを埋め立てて失業者を強制収容。
集めて働かせます。
風紀の取り締まりも厳しく、洒落本、黄表紙、浮世絵が衰えてしまいます。
このような負の面が強いのに、武士たちが書いた歴史書では松平定信は名君として描かれています。
その理由は、松平定信の出した徳政令。
これにより、武士は借金を返さなくてよくなり、評価が高まったのだと考えられます。
ちなみに当時は、田沼意次と松平定信の政策について以下のような歌も生まれ広まりました。
「世の中に 蚊ほど(これほど)うるさき ものはなし
文武文武(ぶんぶぶんぶ)と 夜も寝られず」
「白河(定信)の 清きに魚も棲みかねて もとの濁りの 田沼恋しき」