八代目将軍、徳川吉宗は運に恵まれていました。
もともと、紀州家の四男だったため家督を継ぐ立場とは程遠かったが、五代目将軍の綱吉により、越前丹生郡で小大名になります。
その後、紀州家を継いだ兄が死んだことで紀州候となり、さらに七代目将軍の家継が亡くなると、前将軍の家宣の遺命によって将軍の地位につきます。
徳川吉宗は、徳川綱吉に恩を感じていました。
そこで、間部詮房(まなべあきふさ)や新井白石ら家宣の重臣を幕府から一掃し「享保の改革」を開始します。
この改革で、新井白石らが行った政策がほとんどひっくり返されてしまいます。
吉宗は武道を奨励して、風紀の乱れを厳しく取り締まります。
これにより40年に渡って栄えた元禄風文化が終わりをつげますが、江戸城の風紀が良くなります。
実際、大奥を50人以上城から下がらせたため、不祥事がなくなりました。
新田開発で健全な財政を取りもどす
大名から1万石につき100石を献上させたり、新田開発を進めたりして経済政策にも力を入れます。
これにより、幕府の財政が整理され健全な財政を取り戻します。
しかし、米が増えるということは米価格の下落につながります。
武士のほとんどは米を経済の基礎としているため、それでは困ります。
そこで吉宗は「米の値段が上がるまで借金を返さなくていい」ということにします。
これが、「徳政令」と誤解されてしまい借金を返す人がいなくなります。
すると金を貸す人もいなくなり、経済は大混乱。
旗本・御家人と札差との間に、金銭に関する裁判も急増してしまいます。
そこで、訴訟をとりあげず「当事者間で解決するように」という相対済令が出されます。
吉宗は享保の改革で、目安箱を設けて広く意見をもとめたり、小石川養生所を作って貧しい病人を診る施設を作ったりもしました。