江戸幕府5代目将軍、徳川綱吉の時代に元禄(げんろく)文化が花開きます。
関ヶ原の戦いから90年近くたち平和な時代が続くと、経済が発展し町人たちもバブル景気を楽しみます。
この頃、綱吉が犬を殺してはいけないという法律『生類憐みの令』を出します。
この法令を出した理由は様々なものが考えられますが、平和な時代だったことも大きく影響していると思われます。
文化面では、市川團十郎(いちかわだんじゅうろう)、坂田藤十郎という名優が登場。
歌舞伎というジャンルも確立し、近松門左衛門の『曽根崎心中』も演じられます。
井原西鶴(いはらさいかく)は『好色一代男』『日本永代蔵(にっぽんえいたいぐら)』を刊行。
松尾芭蕉により俳諧も発展しました。
絵画では、土佐光起や尾形光琳(おがたこうりん)が登場。
どちらも華やかで絢爛たる元禄文化を代表する画家です。
このように文化の花開いた元禄時代に起こった大事件が赤穂浪士の仇討ちでした。
水に流す?仇討ち?日本人の美徳とは??
1701年。
赤穂藩主の浅野内匠頭(あさのたくみのかみ)が吉良上野介(きらこうづけのすけ)に斬りつけ、切腹をさせられます。
この処分を不服に思った旧藩士が、翌年吉良邸に討ち入って、主君の仇を討ちます。
彼らは「赤穂義士(あこうぎし)」として称えられ、『仮名手本忠臣蔵』などさまざまな講談や芝居が作られました。
これに対し学者の中には赤穂義士を批判する意見が多く、
「殿中の大法を犯した浅野が死刑になるのは当然。」
「恨むなら吉良ではなく幕府を恨むべき」
「文句があるなら赤穂城に立てこもり戦えばよかった」
などの意見もありました。
ちなみに、擁護する学者は以下のような意見を述べています。
「吉良は欲に目がくらみ、浅野を指導しなかったのが悪い」
「喧嘩両成敗がルールなのに吉良におとがめがないのは不公平で赤穂浪士の仇討が起こったのも当然。」
第二次世界大戦後、アメリカ軍が日本を占領した時に『忠臣蔵』を禁止します。
日本人は復讐心が強いと警戒したためだと考えられますが、実際は日本ではあまり仇討が行われませんでした。
どちらかというと、日本人は忘れやすく過去を水に流そうとする傾向があります。
そのため、仇討が美徳として伝えられるようになったのでしょう。