関ヶ原の戦いでは福島正則や加藤清正など「豊臣恩顧の大名」が奮戦して、家康軍が勝利しました。
このことをよく分かっていた徳川家康は、石田三成の軍が敗けたあと豊臣家を心配する大名たちに十分に配慮。
家康は将軍になると、秀吉と生前に約束したとおり千姫と秀頼を結婚させ、「秀頼公の後見人になる」と宣言して豊臣側の大名を安心させます。
さらに、豊臣家の武将に領土を大盤振る舞いして心をつかみます。
ところが、豊臣秀頼が方広寺(ほうこうじ)大仏殿を再建すると、鐘の銘に「国家安康 君臣豊楽 子孫殷昌」と書いてあることに激怒。
「家康」の名を分断することで徳川家を滅ぼし、「豊臣家の子孫繁栄」を目指すという意味だといって秀頼のいる大阪城を攻めます。
もちろん、これはただの言いがかり。
秀頼の優れたたたずまいを見た家康は、「自分が生きているうちに秀頼を始末しよう」と決心しており、鐘の銘はただの口実でした。
天下の名城。大阪城攻略戦
1614年に秀頼のいる大阪城を攻め始めますが、城というものはそう簡単に落ちません。
特に大阪城は秀吉が知恵と財力を惜しみなく出して作った、天下の名城です。
結局、一度目の城攻めでは城を落とすどころか、出城の「真田丸」にさんざんやられてしまいます。
「このままぐずぐず一年も戦いが続いたら、もともと秀吉に地位をあげてもらった大名たちが脱落してしまう。」
そう考えた家康は、急いで和平条約を結びます。
このときに、策を計り大阪城の外堀も埋めて城の守りをなくしてしまいます。
これには豊臣側も抗議しますが、時すでに遅しで、翌年の夏の陣で城が落とされてしまいます。
ちなみに豊臣家は女性が国を滅ぼしたいい例でした
豊臣秀吉が関白になったことにより、豊臣家は武家というより宮廷のようになりました。
宮廷では女性の発言権が強いため、結局、秀頼の母・淀君のような女性に牛耳られていきます。
そのため、真田幸村や後藤又兵衛のような優秀な人物の策略が用いられなくなってしまい、敗北してしまいました。
徳川家康は大坂夏の陣で勝利を収めた翌年、徳川家の将来に安心して瞑目しました。