足軽というものすごく低い身分から成り上がり、日本のトップにまで上った豊臣秀吉。
しかし、晩年の秀吉は若い頃の見る影もなく、哀れな最後を遂げます。
秀吉の戦は、織田信長のように敵を潰すのではなく、降伏させることを重んじていました。
「敵は殺さなければならない」という考えが主流の戦国時代で、かなり異端だったと言えます。
また、日本のトップになった後には北野で大茶会をしたり、醍醐で花見したり、金銀を気前よく分けたり。
主君であった信長が焼き払った比叡山も再考し、本願寺も優遇します。
これらの行いには、秀吉の”明るさ”がよく表れています。
しかし、朝鮮出兵については大きく失敗。
この頃から知的な振る舞いは減り、小人物に成り下がってします。
息子の誕生。小人物に成り下がった秀吉
秀吉がこうなった理由は、老衰による判断力・知力の低下、息子の秀頼(ひでより)が誕生したことが考えられます。
特に秀頼の誕生は秀吉を大きく変えるきっかけになります。
秀吉には若い時から多くの側室がいました。
しかし、歳をとるまで子供が生まれませんでした。
56歳という、当時、超高齢になってからやっと息子の秀頼が生まれます。
子供が生まれれば、自分の後を継がせたいと思うのが親心。
しかし、長い間子供のいなかった秀吉は、甥の秀次を関白にしていました。
そこで、秀次を切腹させると、その遺児、側室、正室、侍女を合計30名処刑してしまいます。
戦国時代ですら降伏させることを良しとした秀吉は、この時にはすでに大きく変わってしまていたのです。
そして最後には豊臣家を残したくて、前田利家や徳川家康たちに泣いて頼みながら死んでいきます。
「秀頼を頼みます、秀頼を頼みます・・・」と。
こうして、秀吉が亡くなると今まで我慢し続けた家康が、ついに動き始めます。