第74代天皇 鳥羽天皇

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<出典:wikipedia

第74代天皇
 鳥羽天皇 とばてんのう
(1103年~1156年)

1103年。
鳥羽天皇が生まれました。
父は堀河天皇、母は藤原苡子(いし)で、名を宗仁(むねひと)といいました。

1107年。
父・堀河天皇が亡くなったため、宗仁親王は天皇に即位して鳥羽天皇となりました。
しかし、鳥羽天皇は当時まだ5歳。
藤原摂関家も以前ほど力がなかったため、祖父の白河法皇が政治を担いました。
白河法皇は、内裏に御座所を設けると、本格的に院政をはじめました。

1119年。
藤原璋子(しょうし)が鳥羽天皇との子ども、顕仁親王(崇徳天皇)を産みました。
しかし、「藤原璋子は白河法皇の愛人である」という噂がありました。
そのため、顕仁親王も白河法皇の子どもではないかと噂されました。

1123年。
白河法皇は鳥羽天皇を退位させ、まだ5歳だった顕仁親王(崇徳天皇)を天皇の位につけました。
しかし、1129年。
白河法皇が亡くなったため、鳥羽上皇(鳥羽天皇)の政治がはじまりました。

やっとはじまる!鳥羽上皇の政治

白河法皇が亡くなると、幼い崇徳天皇(顕仁親王)に代わって鳥羽上皇が政治をはじめました。

まず、白河法皇によって失脚させられた藤原忠実(ただざね)を登用。
要職には自分の側近をつかせました。
続いて白河法皇との関係が噂されていた璋子を遠ざけると、藤原得子を寵愛。
得子が体仁親王(近衛天皇)を産んだため、鳥羽上皇は崇徳天皇を退位させて体仁親王(近衛天皇)を天皇にしました。
これは鳥羽上皇が崇徳天皇のことを「叔父子」として嫌っていたためです。

1142年。
鳥羽上皇は、東大寺戒壇院で守るべき戒を受け、法皇となりました。

その後、幼い天皇を即位させ、権力を確立した鳥羽法皇(鳥羽上皇)は、白河法皇に減らされた荘園(私有地)を増やしてしまいました。
これにより、荘園と朝廷の持つ国衙領(公領)が共存する状態となりました。
また、荘園の増加に伴い、上級貴族や大寺社に一国の支配権を与えていきました。

崇徳上皇は、鳥羽法皇の冷遇にじっと耐えていました。
そして、自分の第一皇子である重仁親王が皇位をつくことを期待していました。

1155年。
近衛天皇が亡くなったため、重仁親王にチャンスが訪れました。
しかし、鳥羽法皇の一存で雅仁親王(後白河天皇)が次の天皇となってしまいました。

1156年。
鳥羽法皇は病に倒れ亡くなってしまいました。
崇徳上皇はすぐに院御所に出向いて、遺体に面会しに行きました。
しかし、面会拒否。
鳥羽法皇は近臣に「自分の遺体を崇徳上皇に見せてはいけない」と伝えていたのです。

怒った崇徳上皇は自分の屋敷へ引き返しましたが、身の危険を感じて各地の武士たちを集めました。
こうして、保元の乱が発生することとなりました。

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