藤原道長(平安時代)

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<出典:wikipedia

藤原道長(ふじわらのみちなが) 966年~1027年

 

966年。

藤原道長は、藤原兼家の子どもとして誕生しました。

道長の母は学問に熱心だったため、道長も小さいころから学問にはげむことになります。

 

道長には2人の兄、道隆と道兼がいました。

2人とも関白という役職につき天皇のサポート役になりましたが、早くに亡くなってしまいます。

そのため、藤原道長にも関白となるチャンスがでてきます。

しかし、兄の道隆の長男である藤原伊周(これちか)も関白になろうと企んでいました。

 

このような状況に一条天皇はどちらを関白にするか悩みます。

結局、天皇の母の推薦で道長が内覧の役職につき、すぐに右大臣に任命されます。

こうして、わずか30歳で藤原道長は藤原氏のトップに立ちました。

 

996年。

道長は伊周を大宰府(だざいふ)に流して、みずからは左大臣に。

これにより道長に対抗するものはいなくなり、朝廷での道長の勢いはさらに強くなっていきます。

栄華を極めた藤原氏

道長は一族繁栄のために、娘を天皇の后にしようと考えます。

1000年。

娘の彰子(しょうし)を一条天皇のきさきにすると、そのあとも3人の娘を次々に天皇の后にしていきます。

彰子の産んだ皇子が、後一条天皇となると道長は祖父として天皇を助ける摂政という役職に!!

こうして、道長は朝廷内で強大な権力を握りました。

ちなみに、このとき道長はこのような歌を詠みます。

この世をば わが世とぞ思う 望月の
かけたることも なしと思へば

「満月に欠けるところがないように、この世で何一つ欠けていることはない」と、栄華を極めたのです。

 

1017年。

道長は長男の頼道に摂政の位をゆずると、自らは朝廷最高位の太政大臣になります。

しかし、2年後。

道長はとなり法成寺を建てると信仰の生活へはいります。

 

1027年。

道長は法成寺で、その一生を終えました。

法成寺に住んでいた道長は、のちに御堂関白と呼ばれるようになりました。

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