<出典:wikipedia>
菅原道真(すがわらのみちざね) 845年~903年
845年。
菅原道真は、学者の家柄だった菅原家に生まれます。
道真の父も大学で漢詩文や歴史を教える文章博士でした。
小さいころから父に教えられていた道真。
早くから漢詩を読めるようになり、18歳の時に役人の養成機関である大学に合格します。
大学に入った道真は優秀な成績をおさめ、当時もっとも難しい試験といわれていた方略試にも合格。
役人への道を歩み始めます。
菅原道真が国司になる
香川県にある讃岐国の国史に任命された道真。
国を治めながら、漢詩や和歌をつくって過ごしました。
このころ都では政治が混乱。
宇多天皇が藤原基経(もとつね)に関白の任命書を出しますが、基経はそれが失礼だとして政治を行わなかったのです。
これを知った菅原道真は基経に、
「小さいことにこだわるのは基経公のためによくありません」
と、意見書を出します。
こうして事件が解決し、道真は宇多天皇の信頼を得ます。
遣唐使の廃止をすすめる
4年の任期を終えて都に帰ってきた菅原道真。
天皇のそばに仕えるようになり、政治の中心として活躍するようになります。
894年。
菅原道真は遣唐使に任命されました。
しかし、遣唐使を廃止すべきだという意見書を提出し、これが採用されます。
このときの遣唐使廃止の理由はいくつか考えられています。
・航海で命を落とす危険がある
・中国(唐)の情勢が乱れている
・危険をおかしてまで唐で学ぶことはなくなった
こうして、道真は中国へ渡らずに済みました。
大宰府に流される
菅原道真は宇多天皇に重用され、政治で活躍します。
しかし、これを快く思わなかったのが、左大臣の藤原時平。
時平は醍醐天皇(だいごてんのう)に
「道真が醍醐天皇の弟を天皇にしようとしている」
という話をします。
これを聞いた醍醐天皇は、道真を九州の大宰府へと追いやってしまいました。
無実の罪で大宰府(だざいふ)に流された道真。
都を懐かしみ、死を書いて毎日を過ごしていましたが、903年。
とうとう都に帰ることなく亡くなってしまいました。
道真の死後。
都では豪雨や雷など、災害が多発します。
これは道真の崇りであると考えた朝廷は、道真をまつる北野天満宮を作りました。
天神としてまつられた道真は、現在も「学問の神」としてあがめられています。