<出典:wikipedia>
第65代天皇
花山天皇 かざんてんのう
(968年~1008年)
花山天皇は、冷泉天皇の第一皇子で、名を師貞(もろさだ)といいます。
外祖父の藤原伊尹の力もあって、生後10ヶ月で皇太子になりました。
花山天皇は、先代・円融天皇が早くに退位したため17歳で天皇に即位しました。
しかし、花山天皇にも父・冷泉天皇と同じように異常な振る舞いが見られました。
984年。
即位式の際に王冠が重いと言って脱ぎ捨てました。
さらに清涼殿の壷庭で馬を乗り回そうとしたり、儀式開始直前に女官を大極殿の高御座に引き入れたり・・・。
異常な振る舞いを見せる花山天皇でしたが、国政にも積極的に関わりました。
外叔父の藤原義懐(よしちか)と、乳母の子どもの藤原惟成(これしげ)を側近にし、荘園を整理。
貨幣の流通を活性化させたり、公卿に密封した状態で意見を提出させるなど、革新的な施策を行いました。
しかし、急激な変化は、変化を嫌う公卿から反感を買いました。
また、皇太子となっていた懐仁親王(やすひと)の外祖父・藤原兼家は、権力を奪う機会を狙っていました。
藤原兼家の策略。花山天皇が出家する
花山天皇は藤原為光の娘を寵愛。
しかし、妊娠8ヶ月のときに亡くなってしまいました。
気を落とした花山天皇は、「出家して死後の冥福を祈りたい」と言いはじめました。
そして、これをチャンスと感じた藤原兼家は、天皇を退位に追い込む計画を立てました。
藤原兼家の三男・道兼(みちかね)は花山天皇に仕えていました。
そこで天皇に「私も一緒に出家します」と言って、花山天皇を連れ出しました。
しかし天皇が花山寺で出家すると、道兼は「用事がある」と言って寺から出て行ってしまいました。
道兼に裏切られたことを知った花山天皇は大激怒。
しかし、打つ手がなく、そのまま天皇の位を降りました。
天皇でなくなった花山法皇(花山天皇)は、仏道修行を開始。
熱心に修行して、優れた法力を得たといいます。
特に、花山法皇が修行としてやった西国三十三所巡礼は、今でも受け継がれています。
また、花山法皇は『拾遺和歌集』を編集したとも言われています。