<出典:wikipedia>
紀貫之(きのつらゆき) 868年~945年
9世紀後半。
紀貫之は貴族の子どもとして誕生しました。
紀氏は古くから豪族の家系でしたが、この頃は藤原氏が勢力を伸ばしていたため、紀氏の勢力は衰えていました。
また、当時は遣唐使が廃止され中国の文化が入ってきにくくなった時代。
日本の風土や生活感情にあった国風文化が栄えていました。
このような中で育った紀貫之。
歌人としての才能を発揮し、宮中で知れ渡るようになります。
20代のころから宮中の歌合せ会に参加。
藤原氏に指名されて歌を詠んだこともありました。
『古今和歌集』を編集する
905年。
醍醐天皇により「万葉集」以後の歌が集められて、和歌集が作られることになりました。
紀貫之は醍醐天皇から命令を受けると、紀友則らとともに和歌集を編集することになりました。
数年後。
紀貫之と他3人で和歌集20巻を完成させます。
約1100首をおさめたこの和歌集は『古今和歌集』と名付けられ、天皇の命令で作られた最初の和歌集として有名です。
『古今和歌集』には素朴で詠んだ人も分からない歌から、紀貫之のような貴族のこまやかな感情を詠んだ歌まで載せられました。
紀貫之は『古今和歌集』序文も担当。
やまとうたは 人の心を種として 万の言の葉(よろずのことのは)とぞなれりける
という言葉で書き始められています。
「和歌の根本は人間の心にある」と記したこの序文は、この後、歌を詠む人々にとって大切な目標になりました。
『土佐日記』を記す
『古今和歌集』を作ったあとも、紀貫之は和歌で活躍していましたが、930年。
土佐の国司に任命され、4年間土佐で過ごします。
都へ戻った紀貫之は、女性をよそおった仮名交じりの文章で『土佐日記』を書きつづりました。
『土佐日記』は、日記文学という新しい形式の文学を確立したとして高く評価されます。
しかし、その後はあまり恵まれず、位もほとんど上がらず、945年に亡くなってしまいます。