<出典:wikipedia>
湯川秀樹 -ゆかわ ひでき- (1907-1981)
1907年。
湯川秀樹は小川家の三男として東京で生まれました。
少しして地理学者の父が京都大学に迎え入れられたことから、一家は京都で暮らすことになります。
1929年。
京都大学物理学科を卒業した秀樹は、そのまま大学に残り研究を継続。
1932年に理学部の講師となり、やがて結婚して湯川の姓に変わりました。
1935年。
大阪大学で教鞭をふるっていた湯川は、「素粒子の相互作用について」の論文を発表。
原子核の中に中性子と陽子を結びつける中間子があるという理論を打ち出しました。
2年後。
アメリカの物理学者アンダーソンが宇宙線のなかに湯川の予言した粒子らしいものを発見。
これを知った湯川は、さらに研究を深めていきます。
1939年。
京都大学教授となった湯川は、「中間子理論」をさらに深めました。
そして、この研究で文化勲章を受章しました。
このとき、36歳の若さでした。
日本人初のノーベル賞受賞
やがて湯川はアメリカへ招かれ、プリンストン高等学術研究所、ついでコロンビア大学の教授になりました。
1949年。
湯川の中間子理論研究に対しノーベル物理学賞が与えられ、日本人初のノーベル賞受賞となりました。
これは、第二次世界大戦の敗戦で暗くなっていた日本を元気づける、明るいニュースとなりました。
1953年。
帰国した湯川は、ノーベル賞受賞を記念して設立された京都大学基礎物理学研究所の所長となります。
そして、朝永振一郎(ともながしんいちろう)らと、研究や指導にあたりました。
晩年。
湯川は研究した学問が戦争に使われることに反対しました。
世界平和アピール七人委員会の一人として核兵器反対などの運動に積極的に参加します。
1961年。
世界連邦をつくると、永久平和実現のために世界連邦世界協会会長となって活躍しました。
そして、1981年。
湯川は京都の自宅で亡くなりました。