<出典:wikipedia>
第116代天皇
桃園天皇 ももぞのてんのう
(1741年~1762年)
1741年。
桃園天皇は、櫻町天皇の子どもとして誕生。
1747年に父の譲位を受けて、天皇となりました。
この時代。
摂関家では若い当主が相次いだため、他家の公家たちが不満を抱くようになっていました。
そんななか、垂加神道(従来の神道と儒学を統合した神道)を学んだ竹内式部(たけのうちしきぶ)が現れます。
竹内式部は、若い公家たちに天皇を尊重する尊王論を説いてまわります。
「天皇と公家が学問に励み徳を備えれば、人々はその徳を慕って朝廷に心を寄せ、やがて公家の天下になろう」
教えは桃園天皇にも影響を及ぼし、垂加流に解釈された『日本書紀』の講義が朝廷内で行われるようになりました。
この流れは、平穏を保っていた朝廷と幕府の関係を乱すものとして問題視されはじめました。
そのため、桃園天皇の養母や関白らが説得。
講義が中止されることになりました。
また、関白らは竹内式部の弟子たちを一斉処分。
竹内式部を京都から追放しました。
しかし、桃園天皇はこの対応に不満を持ち、22歳で亡くなるまで摂関家と対立を続けることとなりました。
第117代天皇
後櫻町天皇 ごさくらまちてんのう
(1740年~1813年)
1740年。
後櫻町天皇は、櫻町天皇の娘として誕生。
もともと天皇となる予定はありませんでした。
しかし、先代・桃園天皇が22歳で亡くなり、皇子の英仁親王(後桃園天皇)はわずか5歳。
そこで、桃園天皇の姉の後櫻町天皇が即位することとなりました。
女性の天皇誕生は名正天皇以来、119年ぶりでした。
後櫻町天皇の時代。
「明和事件」という尊王論者を弾圧する事件が起きました。
垂加神道を学んだ山県大弐(やまがただいに)が江戸で私塾を開き、儒学や兵学を教えていました。
しかし、その思想が危険視され、上野国小幡藩の内紛を理由に逮捕されて死罪となったのです。
1770年。
後櫻町天皇は甥の英仁親王に天皇の位を譲りました。
その後、後櫻町天皇は後桃園天皇や光格天皇を支え、「国母」として称えられました。