第109代天皇
明正天皇 めいしょうてんのう
(1623年~1696年)
1623年。
明正天皇は後水尾天皇の皇女として誕生しました。
2代目将軍・徳川秀忠の孫であり、3代目将軍・徳川家光の姪にあたります。
1627年。
紫衣事件が起き、後水尾天皇の幕府への不信感が高まりました。
そして、2年後。
徳川家光の乳母である春日局(かすがのつぼね)が、無位無官でありながら参内を希望します。
無位無官のものが参内するなど、前代未聞です。
しかし結局、三条西実条の姉妹分として決行されてしまいました。
これに激怒した後水尾天皇は明正天皇に位を譲位しました。
これに対し、徳川家は後水尾天皇を説得して、譲位を思いとどまらせようとしました。
徳川家が強引に皇位を継承させたというイメージを避けたかったのです。
しかし、後水尾天皇は意志を変えず、明正天皇が859年ぶりの女帝となりました。
明正天皇は即位した時、まだ7歳でした。
そのため、後水尾天皇が上皇となって院政を開始し、明正天皇は15年後に天皇の位を弟に譲りました。
また「女帝は即位後、独身を通さなくてはいけない」という不文律があったため、生涯結婚することなく74歳でこの世を去りました。
<出典:wikipedia>
第110代天皇
後光明天皇 ごこうみょうてんのう
(1633年~1654年)
1633年。
後光明天皇は後水尾天皇の第四皇子として誕生。
1643年に姉の明正天皇の譲位を受けて天皇となりました。
しかし、後光明天皇は当時11歳だったため、引き続き後水尾上皇が院政を行います。
後光明天皇は聡明で漢学や漢詩を好んで勉強。
漢学ばかり学んでいたため、父・後水尾上皇から何度も「和歌にも力を入れるように」と言われるほどでした。
しかし、後光明天皇は朝廷衰退の原因を和歌と『源氏物語』にあると考えていたため、和歌を学ぶことはほとんどありませんでした。
また、後光明天皇は気性が激しく、幕府の役人ともたびたび衝突していました。
20歳になると、後光明天皇は自ら政務を取るようになりました。
しかし、1654年。
疱瘡にかかり22歳の若さで亡くなってしまいました。
あまりにも突然亡くなってしまったため、幕府による毒殺も噂されたといいます。