<出典:wikipedia>
第88代天皇
後嵯峨天皇 ごさがてんのう
(1220年~1272年)
1220年。
後嵯峨天皇は土御門天皇の第三皇子として誕生。
母は源通子(つうし)、名を邦仁(くにひと)といいました。
後嵯峨天皇は、生まれてから1年で母と死別。
その後、承久の乱が起きて、父の土御門天皇が土佐に流されてしまいました。
そのため母方の源通方に身を寄せ、その後、祖母の源在子のいる土御門殿で養育されていました。
そんな中、四条天皇が亡くなりました。
しかし、四条天皇には子どもがおらず、皇位継承問題が浮上。
当時、力を持っていた九条道家や西園寺公経らは、順徳上皇の皇子の忠成王を擁立しました。
一方、鎌倉幕府のトップ・北条時康はこれに反対。
順徳上皇は父とともに承久の乱を主導した人物で、当時、佐渡に流されていました。
もし、忠成王が天皇に即位したら、順徳上皇が京に戻ってくる可能性が高く、それにより倒幕運動が息を吹き返す恐れがあったのです。
そこで北条泰時は、承久の乱で中立だった土御門天皇の血統に皇位を継がせようと考えました。
そして、神明により決めるという口実で、忠成王と後嵯峨天皇に鶴岡八幡宮で「くじ」を引かせます。
こうして、推薦されたのが後嵯峨天皇でした。
後嵯峨天皇の即位が告げられると、土御門院の人々は思わぬ幸運に慌てふためきます。
そして、後嵯峨天皇は翌日に元服。
その夜に内裏に移りました。
今まで、承久の乱などにより朝廷と幕府のあいだは緊張関係にありました。
しかし、幕府の意向で新たに天皇が誕生したため、朝廷が幕府の統制下に置かれるようになりました。
ほどなくして、九条道家が失脚。
西園寺実氏(さいおんじさねうじ)が、朝廷と幕府の仲介役となりました。
後嵯峨天皇は4年間の在位後、亀山天皇に譲位。
自らは上皇となって院政をはじめました。
1252年。
北条時頼の要請により、皇子の宗尊親王を鎌倉へ送りました。
これにより、朝廷と幕府の関係はより親密になりました。
1272年。
後嵯峨天皇が亡くなりました。
しかし、亡くなる直前。
「将来の皇位は後深草・亀山両流のいずれとも定めない。幕府の推挙にまかせる」
と書き残してしまいます。
これが、大きな火種となり、南北朝対立の原因となっていきます・・・。