<出典:wikipedia>
第86代天皇
後堀河天皇 ごほりかわてんのう
(1221年~1232年)
1221年。
後堀河天皇は守貞親王の子どもとして誕生。
母は持明院陳子(じみょういんらんし)で祖父は高倉天皇。名を茂仁(しげひと)といいました。
承久の乱のあと。
鎌倉幕府は後鳥羽上皇につながる血統を排除するために、仲恭天皇の皇位をなくしました。
そして、後鳥羽上皇の血を引かない守貞親王に院政を敷いてもらうよう要請。
これを承諾した守貞親王は、後高倉院として院政をはじめました。
天皇になったことのない皇族が院政をはじめるのは異例のことでした。
次いで、鎌倉幕府が天皇として選んだのが、当時10歳だった後堀河天皇でした。
後堀河天皇の即位が完了すると、後鳥羽・順徳・土御門の3人の上皇が島流しにされました。
後堀河天皇の時代の政治は、ほとんど幕府主導でした。
朝廷の監視・治安維持を目的として六波羅探題が置かれ、朝廷から没収した土地が恩賞として御家人に与えられました。
1232年。
後堀河天皇は皇位を四条天皇に譲り、自らは上皇となって院政をはじめました。
しかし、この2年後、23歳の若さで亡くなってしまいました。
人々はこれを後鳥羽上皇の怨念によるものだとウワサしました。
第87代天皇
四条天皇 しじょうてんのう
(1231年~1242年)
1231年。
四条天皇は後堀河天皇の第一皇子として誕生。
母は九条竴子(しゅんし)で、名を秀仁(みつひと)といいました。
1232年。
2歳という若さで四条天皇は即位しました。
このときの摂政は九条教実(くじょうのりざね)でした。
九条道家は孫が天皇、子どもが摂政という地位になり、権力を拡大しました。
しかし、その後、四条天皇はわずか12歳で亡くなってしまいました。
若くして亡くなり後継者が生まれていなかったため、このあと後継者問題が発生しました。