第75代天皇 崇徳天皇

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<出典:wikipedia

第75代天皇
 崇徳天皇 すとくてんのう
(1119年~1164年)

1119年。
崇徳天皇は、鳥羽天皇と藤原璋子とのあいだに生まれました。
しかし、藤原璋子は白河法皇との愛人関係が噂されており、崇徳天皇は白河法皇の子供ではないかといわれていました。
そのため、鳥羽天皇は崇徳天皇を快く思っていませんでした。

1123年。
白河法皇は鳥羽天皇を退位させて、崇徳天皇(顕仁親王)を即位させました。
わずか5歳で天皇の位についた崇徳天皇でしたが、当然、政治的な実権はほとんどありませんでした。

1129年。
白河法皇が亡くなると、今度は鳥羽上皇(鳥羽天皇)が政権を握りました。
まだ若い崇徳天皇は、父・鳥羽上皇から政権を奪うことはできず、時が過ぎていきました。

1141年。
鳥羽上皇が自分の子どもである体仁親王(近衛天皇)に皇位を継がせるため、崇徳天皇に退位を迫りました。
父の権力に逆らえなかった崇徳天皇はやむなく譲位。
天皇の座を降りました。

崇徳天皇のクーデター

1156年。
鳥羽法皇が亡くなると、崇徳天皇は父の遺体と面会しようとしました。
しかし、鳥羽法皇は遺言で「崇徳天皇に遺体を見せてはいけない」と残していました。
崇徳天皇はこれに憤慨。
左大臣・藤原頼長と手を組んで各地の武士を集め、クーデターを起こしました。
しかし、後白河天皇からの夜襲に敗れ、讃岐国に流されてしまいました。

讃岐国に流され熱心に仏教を信仰した崇徳天皇。
写本づくりに専念し、それを京の寺に納めてほしいと願いました。
しかし後白河天皇はこれを拒否。
怒った崇徳天皇は舌を噛み切って、天皇家を呪いながら亡くなりました。

崇徳天皇の恨みは怨霊となり、都では飢饉や洪水が相次ぎました。
そこで、朝廷は崇徳天皇の院号を「讃岐院」から「崇徳院」に改めて、その霊を慰めました。

ちなみに、崇徳天皇は歌人として優秀で『久安百首』を作成したり、『詞花和歌集』を編集したりしました。

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