<出典:wikipedia>
第46代天皇
孝謙天皇 こうけんてんのう
(718年~770年)
718年。
孝謙天皇(阿部皇女)は、聖武天皇と光明皇后のあいだに生まれました。
聖武天皇には男の子も産まれたため、第一皇女だった孝謙天皇は天皇になる予定はありませんでした。
しかし、聖武天皇の男子は幼くして他界。
当時、皇族勢力の拡大を恐れた藤原氏は、738年に孝謙天皇(阿部皇女)を女性で初めての皇太子にしました。
749年。
孝謙天皇は聖武天皇から天皇の位を譲り受けました。
後継役となったのは光明皇太后。
橘諸兄と藤原豊成を大臣とし、藤原仲麻呂が大納言としてサポートする形で政治運営がはじまりました。
しばらくすると藤原仲麻呂は、紫微令、中衛卿を兼任することになりました。
紫微令は皇后の秘書役。
中衛卿は天皇の秘書役のようなもの。
これにより、天皇や皇太后の命令はすべて仲麻呂を通して伝えられることとなりました。
752年。
東大寺の大仏が完成。
孝謙天皇、聖武天皇、光明皇太后が出席する中、大仏の開眼会が行われました。
この会は菩提僧正が導師を務め、祝いの品の披露や楽舞などで華やかな式典になりました。
ただ、東大寺建立は、財政を圧迫し民衆の暮らしを悪化させるものでもありました。
聖武天皇の死。皇太子の不信任
754年。
聖武天皇がこの世を去りました。
その際、孫の道祖王(ふなどおう)を皇太子に立てるように遺言を残しますが、道祖王は天皇の器ではありませんでした。
754年。
道祖王は聖武天皇の喪中に淫らなことをしたため、皇太子の称号を剥奪されました。
変わって皇太子になったのが、大炊王(淳仁天皇)でした。
大炊王(おおいのおおきみ)は舎人皇子の第7子。
天武天皇の孫にあたる人物でした。
皇太子候補には他にも、池田王、塩焼王、船王などの名が挙がりましたが、最終的に孝謙天皇が決めました。
大炊王の皇太子任命は藤原仲麻呂にとっても歓迎すべきことでした。
2人はもともと親密な関係だったため、仲麻呂はこれ以降さらに力をつけていきます。
これに危機感を抱いた橘奈良麻呂が、藤原仲麻呂に対してクーデターを起こそうとしましたが、未然に計画がバレ、400人以上が処刑・処分されました。
758年。
孝謙天皇は大炊王に天皇の位を譲り、上皇となってしばらく政治から離れます。