<出典:wikipedia>
奥州藤原氏は、藤原清衡から藤原泰衡までの4代。
奥州で強大な力を持っていた一族のことをいいます。
1056年。
藤原清衡(きよひら)が誕生。
母は陸奥の豪族である安部氏の娘で、父は平将門を破った藤原秀郷(ひでさと)の子孫だと言われています。
母が清原氏と再婚したことから、清衡は清原姓を名乗るようになります。
しばらくして、清原一族のあいだに争いが起こります。
はじめは弟と協力して兄と戦っていた清衡。
兄を倒すと、今度は領地をめぐって弟と争うようになります。
1087年。
源義家の助けを受けた清衡は、争いに勝利します。(後三年の役)
後三年の役に勝利した清衡。
領土を獲得し東北一帯を支配するようになると、父の藤原姓を名乗るようになります。
平泉文化が花開く
岩手県の平泉(ひらいずみ)に本拠地を構えた藤原清衡。
陸奥でとれる金や馬を独占して、莫大な富を築きます。
その財力を背景に、清衡は都の文化を取り入れて中尊寺を建てます。
その建設には、21年もの歳月がかかり、1126年。
ようやく中尊寺が完成します。
中尊寺の建物や仏像はすべて金色に輝いていたようです。
1128年。
奥州藤原氏の基礎を固めた清衡がなくなると、藤原基衡(もとひら)がそのあとを継ぎました。
基衡は中尊寺と同じような規模の毛越寺を建設。
平泉文化をさらに発展させます。
あるとき基衡のもとに、都から国司がきました。
土地を調査して、税をしっかりとりたてようというわけです。
しかし、基衡はこれを拒否。
陸奥・出羽の支配を固めます。
基衡は都の藤原氏と争うこともありましたが、決して対等な立場を崩しませんでした。
1157年。
基衡が亡くなると、その子供。藤原秀衡(ひでひら)が平泉を治めることになりました。
秀衡は都の貴族たちに金や馬などを送ると、1170年。
陸奥を平定する将軍に任命されます。
さらに1181年。
陸奥守となり、地盤をより強固なものにします。
1185年。
平氏が滅びると、源頼朝と仲の悪くなった源義経が逃げてきます。
藤原秀衡は義経が小さい頃、我が子のように育てていました。
そこで、義経をかくまうことにします。
こうして、鎌倉の源頼朝と激しく対立した藤原秀衡ですが、1187年に亡くなってしまいます。
秀衡が亡くなると4代目は泰衡(やすひら)に!!
父から、「義経を主君とせよ」という遺言を受けていました。
しかし、泰衡はこれを無視。
源頼朝と結んで義経を討ってしまいます。
義経を討った泰衡ですが、今度は義経をかくまったことを理由に源頼朝に攻められ始めます。
そして、1189年。
ついに攻め滅ぼされ、100年に渡って栄えた奥州藤原氏は滅亡してしまいます。