<出典:wikipedia>
第40代天皇
天武天皇 てんむてんのう
(~686年)
天智天皇の弟だった天武天皇(大海人皇子)。
「天皇になりたい」と考えていましたが、天智天皇には子どもの大友皇子がいました。
671年。
重い病気にかかっていた天智天皇は、天武天皇を寝室に呼びました。
そして「弟の天武天皇に皇位を譲りたい」という話をしました。
天皇になりたかった天武天皇にとっては願ってもない話でした。
しかし、天武天皇は
「私はもともと病気がちで、国家を運営することはできません。陛下は天下を皇后に預けられてはいかがでしょう。そして大友皇子を立てて皇太子としてください。私は出家して陛下が一刻も早く回復されるように仏道を修行します」
と答えました。
実は、天武天皇は天智天皇のもとに行くときに、「策略があるかもしれないから用心するように」と忠告を受けていました。
実際、天智天皇は内心では子どもの大友皇子に天皇の位を譲りたいと考えていたのです。
こうして、天武天皇は天智天皇に襲撃されることなく、出家してチャンスを待つことになりました。
672年。
天智天皇が亡くなると、出家していた天武天皇が動き始めました。
まずは東へ行き、兵を募ります。
そして、後を継いだ大友皇子(弘文天皇)に対してクーデターを起こし、壬申の乱となりました。
この戦いで勝利した天武天皇は、ついに天皇の座につきました。
天武天皇の政治
天武天皇は律令制を導入。
天皇を頂点とする中央集権国家の基礎を作りました。
674年。
官人を目指す人には、大舎人(おおとねり)で実績を出せば官職を定める制度を設けました。
また、独自に勢力を伸ばしやすい畿内や痴呆の豪族たちは、国家の官人として組織化。
天皇制機構のなかに組み込みました。
678年。
「考選法」を制定し、勤務評定や昇進に関する規定を定めました。
684年。
姓を再編成するために「八色の姓(やくさのかばね)」を制定。
真人、朝臣、宿禰、忌寸、道師、臣、連、稲城という新しい身分制度を作りました。
中国(唐)と日本の律令制度の違いは、太政官(だいじょうかん)や神祇官(じんぎかん)が置かれたことでした。
太政官は日本の国政を担当する役職。
神祇官は天皇家や祖先神などの祭りを司り、神社を管理する者です。
天武天皇は宗教的権威を高めるため、神々と神社を活用。
伊勢神宮の祭祀を重視し、娘を送り込みました。
また、史書の編纂も行い、天皇の権威を高めました。
実は「天皇」という称号が使われたのもこの頃からです。
天皇とその祖先を神格化することで、他の豪族より上の存在として認識させたのです。
晩年。
天武天皇は息子と天智天皇の息子をあ吉野に集めて、自分が死んでも後継者争いをしないようにと誓いを立てさせました。
そして、686年に、天武天皇は、息を引き取りました。