第49代天皇 光仁天皇

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<出典:城とか陵墓とか

第49代天皇
 光仁天皇 こうにんてんのう
(709年~782年)

光仁天皇は天智天皇の孫で、長い間、「白壁王(しらかべのおきみ)」と呼ばれていました。
光仁天皇は実務に長けており、760年の光明皇太后の葬儀の際には山作司(みやまつくりのつかさ)になりました。
また、766年には大納言に就任し、称徳天皇が紀州巡幸する際には、御前次第司長官(みさきのしだいしちょうかん)をつとめました。

770年。
第48代称徳天皇の病状が次第に悪化していきました。
すると、重臣たちは後継者を考えるようになります。

右大臣の吉備真備(きびのまきび)は、天武天皇の皇子である文室浄三(ふんやのきよみ)を推薦。
一方、左大臣の藤原永手は、白壁王(光仁天皇)を推薦しました。
また、ほかの藤原氏もほとんどが白壁王を推薦。

こうして多くの支持を集めた白壁王は、称徳天皇のあとを継ぎ、光仁天皇となりました。
このとき光仁天皇はすでに61歳でした。

天皇の系統が変わる

第40代天武天皇以来、100年近く、天武系が皇位を継いでいました。
しかし、光仁天皇誕生により、天智系の天皇が皇位に就くこととなりました。

光仁天皇は井上内親王を皇后に、他戸親王を皇太子としました。
しかし772年。
皇后と皇太子は、天皇を呪詛したという疑いで位を剥奪されました。
代わりに皇太子となったのが山部親王(桓武天皇)でした。
山部親王には反対派も多くいましたが、藤原百川(ももかわ)らによって皇太子となったのです。

穏健な性格で、「奈良麻呂の乱」や「仲麻呂の乱」に関与した人間の流罪も解いた光仁天皇。
782年にその生涯に幕を閉じました。

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