<出典:wikipedia>
式子内親王 しきしないしんのう
久安5年(1149年)~ 建仁元年1月25日(1201年3月1日)
はじめに
式子内親王は、後白河天皇と藤原季成女成子との間に生まれた第三皇女です。
彼女には兄妹が4人いました。
そのうち一人は、源頼朝挙兵のきっかけを作った、以仁王。
しかも父親は、院政で権勢を誇った後白河天皇。
中世の重要人物2人を家族にもつ式子内親王とは、どのような女性だったのでしょうか。
皇女としての式子内親王
1149年に後白河天皇の第三皇女として生まれた式子。
しかし、内親王となったのは10年後の1159年でした。
天皇の娘は全員が皇女ですが、内親王は天皇が“親王宣下”という詔を出さなければなれません。
式子は賀茂斎院(賀茂神社の祭祀に奉仕する人)となるために、親王宣下を出されたのです。
賀茂斎院となった式子は、宮中の初斎院で潔斎をした後、1161年の4月に洛北(都の北)にある紫野の本院に移り、病気で退任するまで8年程ほど勤めました。
歌人・式子内親王。激しい恋心を歌う。
式子には、歌人としての才能がありました。
多くの作品が勅撰和歌集に選ばれ、『新古今和歌集』では代表的な歌人として知られています。
式子の歌は、百人一首にもあります。
玉の緒よ 絶えなば絶えね ながらへば
忍ぶることの 弱りもぞする
「私の命よ、絶えるならば絶えてしまえ。生き長らえば、秘めた恋を内に隠す力が弱まって、思いが外に漏れてしまうかもしれないから」という、激しい恋の歌。
この歌は詠歌歌(お題で詠まれた歌)で、そのお題が“忍ぶる”恋でした。
式子は百人一首の撰者である藤原定家の父・藤原俊成を師としており、定家自身とも交流がありました。
その為か、事実ではありませんが、式子と定家が恋愛関係にあったとして、『定家』という式子と定家の悲恋を描いた謡曲もあります。
1201年の1月25日。
式子は53歳で、その生涯を終えます。
賀茂斎院であった式子には、恋愛や結婚の自由はありませんでした。
そんな式子の詠んだ「玉の緒よ……」の歌は、今なお百人一首の中で人々の心を掴んでいることでしょう。