豊臣秀吉がこの世を去った後の、1600年。
天下分け目の戦いが始まりました。
この戦いに勝ったのは徳川家康。
関ヶ原で石田三成率いる西軍を見事に破りました。
1603年。
徳川家康は朝廷から征夷大将軍に任命され、江戸幕府を開きました。
幕府を開き全国を支配した家康は、まず、豊臣家の力を削ぐために将軍職を徳川秀忠に譲りました。
これにより、将軍は代々徳川家が受け継ぐということを周りに知らしめたのです。
将軍職をおりた家康ですが、その後も幕府の実権を握り、制度を整えていきました。
各地の大名に“武家諸法度”を出して、厳しく統制。
支配地域を巧みに配置し、長年味方だった大名は江戸の近くにおき、天下分け目の戦いで味方になった大名は江戸から離れたところにしました。
また、朝廷や公家に対しても“禁中並公家諸法度”を制定して、天皇を政治から遠ざけました。
こうして、260年も続く幕府の基礎がつくられていきました。
歴代将軍による政策。江戸幕府の基礎が固まる。
<出典:wikipedia>
3代目、徳川家光の時代になると、参勤交代を制度化して幕府と大名の主従関係を明確になりました!!
参勤交代で一年ごとに江戸まで往復しなくてはいけなくなった大名は、財力を蓄えることができなくなり反乱を起こせなくなりました。
また、家康の時代から進められていた鎖国政策を完成させました。
鎖国の主な理由は、キリスト教の普及が幕府にとって都合が悪かったことと、キリスト教により密かに植民地化されることを恐れたためです。
4代目、家綱の時代になると新たな問題が浮上。
いままでは武力で問題を解決していましたが、処罰により行き場を失った牢人が激増したのです。
1651年7月、幕府政治への批判と牢人の救済を訴えて反乱が起きました。
反乱は幕府が鎮圧しましたが、この事件をきっかけに統治方法が変わりはじめ、武力での支配から、儒教思想に基づいた文治政治に切り替わりました。
やがて将軍の下に大名、その下に家臣という関係が定着し、幕府の基礎が固まりました。
5代目、綱吉は武家諸法度を改定し、さらに文治政治を進めていきます。
今まで武士は武芸が最も重要だと説いていましたが、武家諸法度を改定し忠孝と礼儀こそが重要だと説きました。
また、1687年に“生類憐みの令”をだして、犬をはじめとする動物の殺生を禁止しました。
この法令で庶民は混乱しましたが、戦国時代の殺伐とした雰囲気が一掃されました。
綱吉がこの世を去ると、家宣が6代目将軍につきました。
家宣が将軍になると、ただちに生類憐みの令を撤廃。
新井白石をサポート役にして政治を始めました。
ところが、家宣は将軍になってわずか4年で亡くなってしまいました。
次の将軍は家継。
このとき、家継は5歳だったため新井白石らが政治を運営しました。
新井白石は綱吉の時代に作られた粗悪通貨によるインフレを抑制しようとして、金の含有量が多い正徳小判を作り物価の安定を図りますが失敗してしまいました。
新政権になって3年後。
家継はわずか8歳でこの世を去りました。
8代目将軍に選ばれたのは徳川吉宗でした。
新井白石の政治に不満を持った人たちが、吉宗を推薦したのです。
吉宗は将軍になると、幕府や大名の贅沢な生活と赤字財政を問題視。
自ら率先して質素な生活をして、大名たちにも贅沢を控えるように指示しました。
また、大名の財政負担を減らすために参勤交代を減らし、年貢を増やすために新田開発を推進するなどの政策を行いました。
再び財政悪化。止まらない幕府の衰退
10代目、家治の時代になると再び幕府の財政が悪化。
そこで、サポート役の田沼意次が政策を打ち出しました。
田沼は市場経済の発展に目をつけ、商業中心の経済を作ることで幕府の財政を再建しようとしました。
商人の力を借りて国家事業に着手!!
しかし、田沼の急進的な改革は、保守派の反感を買ってしまいました。
そこに、1782年の大飢饉。
米の価格が急上昇し、農業軽視の政策に批判が集まり、田沼は失脚してしまいました。
11代目は家斉。
家斉のもとで政治の実権を握ったのが、松平定信でした。
定信は、田沼の政策を否定して、農業重視・質素倹約の政策を進めました。
しかし、定信の改革は思想や言論を統制するものだったので民衆の反発を招き、わずか6年で失脚してしまいました。
その後、政権を取り戻した徳川家斉は、1837年に将軍職を子供の家慶に譲り、大御所として実権を握りました。
家斉は50年にわたり政治をおこないますが、倹約から徐々に贅沢な生活を求めるようになり、政治が腐敗してしまいました。
ちなみに、この頃。
欧米では産業革命に成功し、原料を確保するため、植民地を求めてアジアに進出を開始しました。
欧米の船は日本近海にも出没するようになり、幕府に貿易を求めてきました。
幕府はこれを拒否し、1825年に外国船を打ち払うように命じました。
1833年。
天保の大飢饉が全国に広がり、多くの餓死者が現れました。
しかし幕府は有効な対策を打ち出せず、反乱がおこりました。
1841年になると、幕府の権威と財政を再建するために水野忠邦が改革を行いました。
しかし、この改革は前の改革を模倣したもので時代に合っていなかったので失敗。
水野忠邦は失脚しました。
幕府の政策がいくつも失敗する中、九州の薩摩藩や長州藩は改革に成功。
薩摩は黒砂糖を専売して財政を立て直し、長州は殖産興業を進めました。
日本中に衝撃!!ペリーと黒船。
1842年。
日本に衝撃的なニュースが入ってきました。
なんとアジアの大国、清(中国)がイギリスとの戦争に敗れ開国したのです。
これに危機感を抱いた幕府は、鎖国政策を和らげました。
1853年になると、ペリーが軍艦4隻を率いてやってきて、強大な軍事力を背景に開国を迫ってきました。
このときは上手く交渉して、なんとか一年後にもう一度話し合うということになりました。
1854年。
再びペリーが軍艦7隻を率いてやってきました。
強大な軍事力を恐れた幕府は、ペリーの圧力に屈して鎖国体制を終えました。
1858年になると、今度はハリスが来航。
関税を自由にかけられない、日本で起きた問題でも外国人を日本で裁けないなど、不利な条約を結ばされてしまいました。
アメリカと不利な条約を結ぶと、同じようにオランダ、ロシア、イギリス、フランスも圧力をかけてきて、結局それらの国とも不平等条約を結ぶこととなりました。
武士たちは幕府が不平等条約を結んだことに納得しできませんでした。
すると当時の権力者、井伊直弼は反対勢力をつぎつぎと処罰しはじめました。
厳しい弾圧を実行した井伊直弼ですが、1860年に暗殺されてこの世を去りました。
14代将軍、徳川家茂のもとで政権を握ったのは、安藤信正でした。
安藤は天皇と協力して国難に立ち向かおうとしますが、またも暗殺されてしまいました。
そんな情勢の中で、九州で力をつけていた薩摩藩と長州藩が動きだし、江戸幕府を倒す雰囲気が流れ始め、時代は明治へと向かっていきます。