1709年 新井白石がシドッチと出会う

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甲府藩主である徳川綱豊(つなとよ)に学問などを教えていた新井白石は、綱豊が六代将軍・家宣になったから幕政に登用されます。

その後、次の将軍家継まで二代にわたって政治を補佐します。

 

1708年。

屋久島に和服を着て刀を持ったイタリア人、ジョバンニ・バティスタ・シドッチが上陸します。

しかし、シドッチは密入国の罪で捕えられ長崎から江戸に送られます。

このとき、シドッチの尋問を行ったのが、新井白石。

西ヨーロッパで最高の教育を受けた宗教家と、日本を代表する天才学者の対話が実現したのです。

 

新井白石は自然科学に対するシドッチの知識に敬服します。

このときすでに地球一周の航海術までもっていた西洋人に、本当に驚きました。

しかし、キリスト教の話になると立場が変わります。

新井白石にとってキリスト教は、仏教と似ているところもあるが比べようもないくらい浅薄で幼稚に映りました。

 

白石はその後、シドッチとの対話をもとにして『西洋紀聞(せいようきぶん)を書き、その後の思想に大きな影響を与えます。

特に、世界地理や風俗、歴史について書いたものは客観性も高く、外国の事情を知るために最高の本とされていました。

また、「西洋は自然科学の分野では日本より優れているが、精神面では幼稚」という認識は和魂洋才の思想のもとにもなります。

 

ちなみに、シドッチが牢獄にいるときに、その世話をしていた老夫婦は、シドッチの日常に感動して洗礼を受けます。

新井白石には幼稚といわれますが、そこには言葉も通じない老夫婦を改宗させるだけの何かがあったのでしょう。




新井白石の功績

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西洋紀聞でのちの日本に大きな影響を与えた新井白石ですが、天皇家の未来にも大きく貢献します。

まず、天皇将軍の意味をはっきりと区別します。

将軍は日本の国を治める国王であるが、天皇は天に関わるものであると。

なので、将軍も天皇の臣下となり、天皇のお世話をする公卿以外は将軍家の家来ということになります。

しかし、残念ながら改革が実行される前に家宣が亡くなってしまい、この考えが定着することはありませんでした。

また、当時、将軍家が綱吉、家宣と養子が二代にわたって続きました。

これは、二代にわたって将軍に子供が生まれなかったことを意味します。

今後、皇室でもそのようなことが起こるだろうと考えた新井白石は、跡継ぎの資格を持つ宮家を作ります。

これにより、今日まで天皇の血筋が絶えることなく続き、朝廷が存在し続けているのです。