戦国時代|1597年 慶長の役(第二次朝鮮出兵)

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前の朝鮮出兵(文禄の役)では中国への侵攻が目的でしたが、第二次朝鮮出兵は「礼を欠いた朝鮮」を成敗することが目的でした。

軍勢は前回の半分の約14万人。

 

1597年。

蔚山城(うるさんじょう)の戦いが始まります。

戦の拠点とするため日本軍は蔚山城を作りはじめます。

しかし、そこに中国軍4万、朝鮮軍2500が攻めてきます。

警戒を疎かにしていた日本軍はたちまち劣勢に。

兵糧も少なく、玉砕覚悟で突っ込むしかない状況にまで追い込まれます。

和平交渉で時間を稼いでギリギリまで粘っていたところに、援軍、毛利秀元隊が現れ相手の背後を取ります。

背後を取られた驚いた中国・朝鮮軍は、兵糧も武器も大砲も全部捨てて退却しました。




島津軍!後世に語り継がれるほどの大活躍!

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その後、島津義弘が泗川(しせん)で大活躍。

泗川城を築くと中国軍を引き付けて次々と打ち破ります。

当時の記録によるとなんと3万8千もの首を打ち取ったとされ、中国・朝鮮では数百年後まで語り継がれるほど島津軍が恐れられます。

 

当時、中国では新たに勃興したヌルハチとの戦闘が相次ぎ、中国軍の財政は窮乏していました。

なので、秀吉軍がそのまま中国を倒して朝鮮を占領する可能性もありました。

しかし、1598年。

秀吉が病死すると、毛利輝元、宇喜多秀家(うきたひでいえ)、前田利家(まえだとしいえ)、徳川家康の四大老が朝鮮からの引き上げを命じます。

講和はそれぞれの武将に任せて、どの武将も勝者として円滑に講和を進め帰国します。

 

ところが・・・。

帰国する日本軍を朝鮮・中国軍が待ち受けていて、海上を封鎖。

日本軍は帰国できなくなります。

そこへ島津軍が現れ、海上での戦いが始まります。

 

通説ではこの戦いで島津軍は大苦戦の末、命からがら日本に逃げたとなっています。

しかし、島津軍の主な武将が全員無事なこと。

中国水軍の副将が斬り殺されていること。

朝鮮水軍の大将が鉄砲により死んでいることなどから、日本優勢で戦いが進んだと考えられます。