<出典:wikipedia>
第50代天皇
桓武天皇 かんむてんのう
(737年~806年)
737年。
桓武天皇は、光仁天皇と高野新笠(たかのにいがさ)のあいだに生まれ、名を山部といいました。
781年。
光仁天皇が病気と高齢を理由に天皇を退位すると、皇太子だった桓武天皇が第50代天皇となりました。
782年。
氷上真人川継(ひがみのまひとかわつぐ)が謀叛。
謀反は失敗し朝廷に捕まりましたが、光仁天皇の喪の期間だったため、極刑を免れ流刑となりました。
川継の謀反に加えて、当時は飢饉や疫病で社会が荒れていました。
そこで、桓武天皇は藤原種継(たねつぐ)の意見を取り入れ、都を移すことに!
社会不安を取り除こうとしました。
こうして、784年。
平城京から長岡京へと都が移されました。
長岡京へ移ると、藤原種継が暗殺されてしまいました。
桓武天皇はただちに犯人捜しを開始。
五百枝王、紀白麻呂、大伴継人、大伴永主、林稲麻呂らに加え、皇太子の早良親王(さわらしんのう)も逮捕しました。
これに対し、早良親王は無罪を主張。
しかし流罪となり、淡路島へ移送される途中亡くなってしまいました。
早良親王の祟り。平安京へ移る
これ以降、長岡京では不吉な事件が相次ぎました。
・桓武天皇の母が病死
・高野新笠皇太后が病死
・乙牟漏皇后が病死
・夫人旅子が病死
・安殿皇太子も体調不良
桓武天皇はこの原因を探るため陰陽寮で占ったところ、「早良天皇の崇り」だと言われました。
崇りを恐れた桓武天皇は、都を移すことを決意。
平安京を作りはじめました。
794年。
造営中の平安京に移った桓武天皇は、都を移した後も造営を続け完成を目指しました。
しかし、平安京に移ったあとも早良親王の怨霊に悩まされ続けたようです。
また、このころ蝦夷討伐も積極的に行っていました。
しかし、第一次・第二次蝦夷討伐はともに失敗。
801年。
三度目の蝦夷討伐を行いました。
将軍となったのは坂上田村麻呂。
蝦夷の牙城・胆沢(いさわ)の攻略を開始します。
討伐戦の詳細は分かっていませんが、田村麻呂らは蝦夷を打ち破ると、平安京に戻ってきました。
その後、田村麻呂は胆沢に城を築くことを進言。
東北での軍事・経営拠点が出来上がりました。
803年。
4回目の蝦夷討伐を計画。
しかし、藤原緒嗣(おつぐ)が
「今、天下が苦しんでいるのは蝦夷討伐と平安京造営によるものです」
と話します。
これを聞いた桓武天皇は蝦夷討伐を中止。
平安京の造営もストップしました。