<出典:wikipedia>
第35代天皇
皇極天皇 こうぎょくてんのう
(594年~661年)
641年。
舒明天皇が亡くなると、その皇后であった宝皇女(たからのひめみこ)が、皇極天皇として即位しました。
しかし、この頃から蘇我氏の横暴が目立つようになってきます。
642年。
蘇我蝦夷(そがのえみし)は、祖先の霊を祀る建物を建て、天子の舞を躍らせました。
また、自分の墓と息子・入鹿の墓を並べて作り、「大陵(おおみささぎ)」「小陵(こみささぎ)」と呼ばせました。
「陵」とは天皇の墓を意味する言葉ですが、それを自分の墓につけてしまったのです。
643年。
蘇我蝦夷は病気を理由に自宅に引きこもりました。
すると、今度は息子・蘇我入鹿が表舞台に現れてきました。
入鹿の勢いは父親以上。
古人大兄皇子を天皇にするため、そのライバルとなる山背大兄王の殺害計画を立てました。
同年11月。
ついに山背大兄王を攻撃!!
しかし、山背大兄王を守る者たちは少人数でありながら奮闘し、そのすきに山背大兄王は生駒山へ逃げました。
山背大兄王の側近は、東国へ移動して権力を奪い返すことを提言。
しかし山背大兄王は国を二分することを避けるため、一族のものと共に自決しました。
こうして、聖徳太子の血を引くものはいなくなってしまいました。
この報告を聞いた蘇我蝦夷。
「お前はバカだ!!お前の命は危ういぞ!!」と、入鹿を罵倒。
この予感は的中し、蘇我氏は舒明天皇の子どもである中大兄皇子(なかのおおえのおうじ)に滅ぼされてしまいました。
皇極天皇の功績
皇極天皇の業績として最も有名なのは、642年の雨乞い。
当時、日照りが続いて各地で雨乞いが行われていましたが、なかなか雨が降りません。
そこで、天皇が自ら天に祈りを捧げます。
すると5日間に雨が降り、大地をうるおしました。
また、皇極天皇は生きているうちに皇位を譲った初めての天皇でした。
645年に軽皇子(かるのみこ)天皇の位を譲りますが、654年に齋明天皇として天皇の座に戻りました。