第30代天皇
敏達天皇 びだつてんのう
(538年~585年)
538年。
敏達天皇は、欽明天皇の第二子として生まれました。
『日本書紀』には、敏達天皇について「仏法を信じず、文章や歴史を愛した」と記されています。
また、新羅や百済など、朝鮮半島との交流に力を入れ、高句麗との国交も開始したようです。
当時、蘇我馬子(そがのうまこ)が仏殿を建てたり修行者を支援して、仏教を信仰していました。
同じ時期、疫病が流行してしまいました。
すると、これを好機と捉えた物部守屋らが「蘇我氏が仏を祀るせいだ」と訴えてきます。
そこで、敏達天皇は仏法の停止を命じましたが、疫病は収まりません。
そのため、蘇我馬子は仏教の信仰を許されました。
585年。
敏達天皇は、流行していた疫病にかかり亡くなってしまいました。
<出典:wikipedia>
第31代天皇
用明天皇 ようめいてんのう
(540年~587年)
540年。
用明天皇は、欽明天皇と蘇我稲目の娘である堅塩媛の間に生まれました。
敏達天皇が亡くなると、用明天皇が即位しましたが、在位期間はわずか2年。
目だった業績もなく亡くなってしまいました。
第32代天皇
崇峻天皇 すしゅんてんのう
(553年~592年)
用明天皇が亡くなると、当時の二大勢力、
穴穂部皇子(あなほべのみこ)&物部守屋(もののべもりや)連合と、炊屋姫(かしきやひめ)&蘇我馬子(そがのうまこ)連合の武力衝突が起こりました。
馬子は穴穂部皇子を殺害。
多数の皇族を味方につけます。
しかし、物部軍が奮戦。
蘇我氏は劣勢に陥ります。
そこで、厩戸皇子(聖徳太子)が四天王寺建立の誓いを立て、蘇我氏は物部軍に勝利しました。
この戦いのあと、
欽明天皇の12子であった崇峻天皇が即位しました。
しかし崇峻天皇は蘇我氏の後ろ盾のおかげで天皇になった身。
実権はほとんどなく、蘇我氏の傀儡政権となってしまいました。