第82代天皇 後鳥羽天皇

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<出典:wikipedia

第82代天皇
 後鳥羽天皇 ごとばてんのう
(1180年~1239年)

1180年。
後鳥羽天皇は高倉天皇の第四皇子として誕生。
母は藤原殖子(しょくし)。名を尊成(たかなり)といいました。

1183年。
平氏が安徳天皇を連れて都落ちしました。
そこで後白河法皇は、安徳天皇が京に戻ってくるのを待とうか迷いますが、新しく天皇を立てることに決めました。
このとき天皇の候補として惟明親王と尊成親王がいましたが、後鳥羽法皇が寵愛していた丹後局(たんごのつぼね)の夢占いにより、尊成親王(後鳥羽天皇)の即位が決定したといわれています。

1183年。
後鳥羽天皇の即位式が行われましたが、このとき三種の神器は平氏が持ち去っていました。
そのため、式は法皇の院宣のみでした。

平氏が持ち去った三種の神器ですが、平氏滅亡後に八咫鏡(やたのかがみ)と八尺瓊勾玉(やさかにのまがたま)は、のちに帰ってきます。
しかし、草薙剣(くさなぎのつるぎ)だけは見つかりませんでした。

ついに後鳥羽天皇が政治の実験を握る

1192年。
後白河法皇が亡くなると、後鳥羽天皇は天皇中心の政治をはじめました。
政務担当は九条兼実と土御門通親(つちみかどみちちか)
しかし、九条兼実は源頼朝と良い関係を築いていたため、これを不快に思った反武士勢力が兼実を失脚させてしまいました。

1198年。
在位期間19年、数え年19歳で後鳥羽天皇は退位。
後鳥羽上皇となりました。

しばらくすると、大きな権力を握っていた土御門通親が亡くなりました。
これにより、後鳥羽上皇は専制君主に傾きはじめ、その後、土御門天皇・順徳天皇・仲恭天皇の3代にわたって上皇として政治を行いました。

権力を手に入れた後鳥羽上皇は、鎌倉幕府を倒して天皇主権を取り戻そうと計画しました。
しかし、承久の乱で敗れ、隠岐へ流されてしまいます。
そしてそれから19年間は、死に至るまで隠岐で生活することとなりました。

ちなみに、後鳥羽天皇は歌人としても超一流でした。
『新古今和歌集』の撰定に深く関与し、琵琶、蹴鞠、囲碁、双六などをたしなみ、
さらに武芸も好み、相撲、水練、笠懸の鍛錬も行いました。

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