<出典:wikipedia>
第107代天皇
後陽成天皇 ごようぜいてんのう
(1571年~1617年)
1571年。
後陽成天皇は、誠仁親王(さねひとしんのう)の子どもとして誕生。
1586年。
父・誠仁親王が亡くなると、祖父・正親町天皇に譲位されて16歳で天皇となりました。
天皇となった当時。
豊臣秀吉が政権を握っていました。
秀吉は自分の権威を高めるために、朝廷を利用。
天皇を尊重する政策を取りました。
1588年。
後陽成天皇が聚楽第(じゅらくだい)に行くと、秀吉はこれを盛大に行い、御所から聚楽第までの警護に6000人の武士を当たらせました。
九州征伐や小田原攻めの際も、秀吉は「天皇の停戦の意志に逆らった」として大軍を動かしました。
また、朝鮮出兵の際も、明(中国)を征服して後陽成天皇を中国の皇帝にする計画を立てていたようです。
こうして、秀吉のもとで権威の高まった後陽成天皇。
しかし、秀吉が亡くなり徳川家康が天下を取ると、状況が一変しました。
家康は江戸幕府を開くと、朝廷の権威抑制にかかりました。
官位の叙位権や元号を変更は幕府が行うこととなり、天皇家や朝廷への風当たりが強くなってしまいます。
後陽成天皇はこれを不満に思いますが、徳川家康に対してなす術がありません。
そして、1661年。
後水尾天皇に譲位し、1617年に47歳で亡くなりました。
<出典:wikipedia>
第108代天皇
後水尾天皇 ごみずのおてんのう
(1596年~1680年)
1596年。
後水尾天皇は後陽成天皇の第三皇子として誕生。
名を政仁(ことひと)といいました。
先代・後陽成天皇はもともと智仁親王(としひとしんのう)に皇位を継がせようと考えていました。
しかし、智仁親王は豊臣家と縁が深かったため、徳川幕府に却下されてしまいます。
そこでやむなく第三皇子だった政仁親王が皇位を継ぐこととなり、後水尾天皇として即位することとなりました。
こうした背景から、親子関係が微妙な状況になってしまいました。
後水尾天皇の時代。
江戸幕府の朝廷に対する圧力が増していきました。
1613年。
天皇がみだりに僧侶に紫衣(しえ)や上人号(しょうにんごう)を許すことを禁止。
1615年には、朝廷の行動を江戸幕府の統制下におくため「禁中並公家諸法度(きんちゅうならびにくげしょはっと)」も制定されました。
だんだん、後水尾天皇の不満が高まっていきます。
1627年。
天皇が高僧に与えた紫衣勅許を幕府が取り消したため、後水尾天皇の怒りは頂点に達しました。
そして、天皇の位を明正天皇に譲位すると、その後、半世紀にわたって院政を展開しました。
ちなみに後水尾天皇は学問や茶道、華道、書道に通じた文化人で、この時代「寛永文化」と呼ばれる学芸文化が京都中心に広まりました。