<出典:wikipedia>
第97代天皇
後村上天皇 ごむらかみてんのう
(1328年~1368年)
1328年。
後村上天皇は後醍醐天皇の第七皇子として誕生。
母は、阿野廉子(あのれんし)で、名を義良(のりよし)といいました。
後醍醐天皇の勢力が鎌倉幕府を滅ぼした後。
後村上天皇は陸奥へ行き、東国の武士の統治を行いました。
1335年。
足利尊氏が反旗を翻したため、京へ帰還。
尊氏を西国に追い落とし、陸奥へと帰っていきます。
しかし、翌年。
足利尊氏が再び攻めてきて、後醍醐天皇が破れてしまいます。
後醍醐天皇が吉野へ逃れたことを聞いた後村上天皇は、再び京へ向かいます。
しかし、今度は尊氏に敗れ、後村上天皇も吉野へ逃れます。
吉野へ逃れた後村上天皇は三度、陸奥へもどろうと試みますが、いずれも海上で暴風雨にあい失敗。
吉野で過ごすことになりました。
後村上天皇が天皇に即位する
1339年。
後醍醐天皇が亡くなる前日に、後村上天皇は天皇の座を譲位されました。
こうして、南朝第2代天皇となりますが、苦難の日々は続きます。
天皇となった後村上天皇は、諸国に命令を下して南朝勢力を募ります。
しかし劣勢は続き、高師直(こうのもろなお)に攻められたため、大和賀名生行宮(あのうのかりみや)へ都を移します。
1349年。
足利尊氏・直義兄弟の対立で「観応の擾乱」が起きます。
この乱で尊氏が降伏。
一時的に南北朝が統一し、北朝の崇光天皇と皇太子の直仁親王が廃止されます。
これを受け、後村上天皇は京・鎌倉を奪回しようとしますが、逆に南北朝の統一が破綻。
混乱のなか、光厳上皇・光明上皇・崇光天皇・直仁親王を拉致するという強硬手段にでたり、京都回復のために策を巡らせましたが大勢を挽回できず、住吉の地で亡くなりました。