第19代天皇
允恭天皇 いんぎょうてんのう
(~453年)
允恭天皇は仁徳天皇の第四皇子。
履中・反正天皇の弟にあたります。
反正天皇が跡継ぎを決めないうちに亡くなったため、臣下の要請で天皇に即位しました。
允恭天皇は当初、天皇になることを拒んでいました。
しかし、忍坂大中姫(おしさかのおおなかつひめ)に懇願されて、天皇に即位したといいます。
忍坂大中姫はのちに允恭天皇の皇后になりました。
允恭天皇は都を遠飛鳥宮(とおつあすかのみや)に移しました。
遠飛鳥宮は現在の奈良県明日香村あたりで、允恭天皇は初めて飛鳥に都を構えた天皇でした。
允恭天皇の実績でもっとも大きなものが、「盟神探湯(くかたち)」です。
神明裁判の一種で、神に誓ってから釜の熱湯に手を入れると、嘘をついている者は火傷を負ってしまうというものでした。
この裁判が使われた背景には、氏姓を偽る人が多かったことがありました。
姓は豪族の職能や政治的地位を表すものだったため、嘘をついて高い姓を名乗る人と、それに伴い姓を失ってしまう人がいて、紛争の種となっていました。
允恭天皇はこれを改善するために「盟神探湯」を行ったのです。
嘘をつくものは火傷するため、恐れをなして正直に告白するものも増え、氏姓の乱れはなくなったといいます。
<出典:wikipedia>
第20代天皇
安康天皇 あんこうてんのう
(~456年)
安康天皇は、允恭天皇の第二皇子。
『日本書紀』によると、安康天皇が政治を行っていたのはわずか3年間だけで、実績はほとんど記されていません。
第二皇子だった安康天皇は、本来、天皇になる予定はありませんでした。
第一皇子だった木梨軽皇子(きなしのかるのみこ)が皇太子として育てられていたのですが、木梨軽皇子は妹の軽大娘皇女(かるのおおいらつめのひめみこ)と禁断の恋に落ちてしまいました。
これにより、木梨軽皇子は人望を失い軽大娘皇女は伊予へ流されてしまいました。
允恭天皇が亡くなると、家臣たちは皆、安康天皇を推薦。
木梨軽皇子は自殺に追い込まれてしまいました。
即位した安康天皇は、都を石上穴穂宮(奈良県天理市)に構えました。
その後、弟の大泊瀬幼武尊(雄略天皇)のために、叔父の妹である草香幡梭姫皇女(くさかのはたびひめのひめみこ)を妃にしようとしました。
しかし、安康天皇は使者の企てで叔父を殺し、その妻を皇后にしてしまいました。
これが恨みを買い、安徳天皇は殺されてしまいました。
こうして、安徳天皇の時代はわずか3年で終わってしまいました。