第26代天皇 継体天皇

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<出典:wikipedia

第26代天皇

 継体天皇 けいたいてんのう (450年~531年)

 

第25代武烈天皇には子供がいませんでした。

そのため、武烈天皇が亡くなると後継者問題がでてきます。

しかし、第21代雄略天皇が天皇の血を引くものを次々と殺してしまったため、なかなか適任者が見つかりません。

そこで、家臣たちが目をつけたのが倭彦王(やまとひこのおおきみ)でした。

しかし、迎え入れるための使者を派遣すると、倭彦王は山中へ逃げ行方が分からなくなってしまいます。

次に候補となったのが、應神天皇の血筋を引く男大迹王(おおどのおおきみ)。

使者を送ると、男大迹王は堂々とした風格で使者を迎えますが、「自分は天子としての資質がなく、力不足である」と天皇の座を断ります。

しかし、繰り返しの要請で、最終的に男大迹王は天皇に即位することを決め、継体天皇になりました。

 

ただ、この話は、実際はヤマト政権の混乱を利用して天皇の座を奪った継体天皇の作り話である可能性も高いです。

『日本書紀』や『古事記』には継体天皇の父の名前は載っていますが、系図が載っていません。

自らは應神五世の孫だといっていますが信憑性に欠けますし、應神天皇と継体天皇の関係は物凄く遠いものなんです。

さらに即位してから大和に入るまでに長い歳月がかかっています。

このことから、継体天皇は即位後に畿内・大和の勢力を倒す時間が必要だったのではないかと考えられます。

 

こうして、神功皇后・應神天皇によってスタートした王朝は途切れ、継体天皇の王朝がスタートしました。

継体天皇の政治

 

大和に入った継体天皇は、臣下の序列や職位をそのまま受け継ぎます。

また、朝鮮の百済とも良好な関係を維持しました。

 

継体天皇の晩年。

九州の有力豪族である筑紫君磐井がヤマト政権に反旗をひるがえします。

磐井は、筑紫を中心にして、肥前・肥後・豊前・豊後を勢力下に置き、百済からの貢ぎ物を奪いました。

これに対し527年。

継体天皇は磐井討伐を決意。

物部麁鹿火(もののべのあらかい)を送り込みます。

麁鹿火は筑紫の三井郡で磐井軍と衝突。

接戦の末、反乱を鎮圧しました。